オリオニア(19)
「由美、引っ越すんだよ」
その発言の意味を、信也はすぐには理解できなかった。
たっぷりと時間を取ってから、やっと動き出した頭をフル回転させて、なんとか口を動かそうと努力する。
本当は二、三秒だったのだろうが、何分もの長い沈黙だったような気がした。
「……何処に、引っ越すって?」
「関西。神戸だって」
「由美が、そう言ってたのか?」
信也の穏やかな口調に、梓は黙って頷いた。
まだ、頭が混乱している。
引っ越し?
どうして?
何よりも、それをどうして黙っている?
嘘じゃないのか?
そんな大事なこと、由美が黙っているだろうか。
まさか、梓が何かを企んでいて──
いや、そんな考えはよそう。
梓は、そんな奴じゃない。
そんな奴じゃ、ないんだ。
「さっき、ゆーちゃんから電話があってね」
動揺を隠せない信也をよそに、梓は語り始めた。
フーッ、と頬を膨らませて息を吐き出しながら、梓は空を見上げた。
息を整え、気持ちを落ち着かせて、そしてまた口を開いた。
「その時に、泣きながら相談されたの。私、どうしたら良いんだろう、って」
信也は黙り込んだまま、閉ざされたまんまの校門を見つめた。
いつの間にか、高校の門の前まで来ていた。
そんなことにも気付かない位に、気が動転していたらしい。
頭を整理しようと、小さく深呼吸をした。
「だから、香苗ちゃんに電話して、村上君の居場所聞いたの」
近くを通り掛かった車が、クラクションを鳴らす。
急ブレーキをかけた自転車が歩道のスレスレの所に停車すると、
自動車はゆっくりと走り去って行った。
「どうしてだろうね」
梓が今にも泣き出しそうな震える声で囁く。
信也は驚いて女の人が漕いでいる自転車の後ろ姿から梓へ視線を戻した。
梓は、まだ空を見つめていた。
「私だって……私だって泣きたいのに」
その一言が、信也の頭をグラリと揺るがした。
後頭部を殴られたような、そんな衝動。
胸が痛い。
ジンジンと、ヒリヒリと痛い。
「ゆーちゃんは、私の気持ちを知らないから、仕方がないけどさ」
「……ごめん」
「謝らないでよ」
視線を近くの街路樹へと移して、梓は冷静に言い放った。
「早く、行ったら?」
「え?」
フッと笑って、梓が信也の顔を見上げた。
「ゆーちゃん、まだ一人で泣いてると思うから」
梓の瞳が微かに濡れていて、信也はドキリとする。
表情は笑っている。
ただ瞳だけが泣いていた。
思わず視線を逸らして、信也はアスファルトに目を彷徨わせた。
「行きなよ」
「……悪い」
信也の返答に、梓は小さく頷いた。
「ありがとな」
信也が言うと、梓は寂しそうに笑った。
ゆっくりと息を吐いて、赤く染まり出した雲を眺めた。
「怪我は、大丈夫なのか?」
前に香苗が言っていたのを思い出して、信也は尋ねてみた。
が、馬鹿なことを聞いたなと思い、少し後悔した。
「……そんな優しさ、要らないから」
「……ごめん」
謝ると、呆れたように溜め息を吐きながら、梓は答えた。
「足を捻挫しただけ。おかげで、セッターなのに試合に出られなくて、
二回戦負けしちゃったけどね。でも、もう治ったし」
「そっか」
雲に吸い込まれて行く太陽が、ゆっくりと山の向こうへ消える。
気が付けば、東の空はすっかり暗くなっていて、チラホラと星が輝いている。
──やや南よりに、一際明るく光る木星が目についた。
「由美と、話してくるよ」
「……頑張ってね」
梓の意外な応援の言葉に、ビックリして彼女の顔を覗き込む。
「頑張れ」
「……あぁ」
「……頑張れ」
不意に、梓の頬を涙が伝った。
胸が痛い。
今度はギリギリと痛む。
目を逸らしたかった。
でもそれだと梓に失礼な気がして、敢えて逸らさなかった。
「がん、ばれ……」
一度堰を切った涙は、止まることはなかった。
ポロポロと、次々に流れ落ちる雫を、ただただ見つめることしか出来ない。
眉間にシワを寄せ、左手で目を押さえながら、
それでも止まらない涙を梓は何度も何度も拭っていた。
「ガン、バッ、テ……」
「もう……良いよ」
穏やかに信也は言った。
肩を震わせながら、嗚咽を漏らしながら、
それでも梓は笑おうとする。
くしゃくしゃに歪んだ笑顔が、寂しくて、切なくて、辛かった。
「もう、何も言わなくて良いから」
「……ウン」
何とか声を絞り出して梓はゴシゴシと涙を拭う。
信也は、黙ってそれを見ながら、優しく語りかけた。
「俺、行くから」
返事を待たないまま、信也は梓に背を向けた。
洟をすする音が聞こえなくなるまで、いや、その後もとひたすらに、ずっと走った。
梓に対し、励ましの言葉は要らない。
今は良くても、それは最終的には梓を苦しめることになるからだ。
自分勝手な考えかもしれない。
でも、きっとこうするしかなかったのだと思う。
そんな風に自分で自分を納得させる。
後悔と自己嫌悪が入り交じる中で、それを誤魔化すためにただ走った。
自分は、馬鹿だ。
太一や道大に対して口癖のように言って来た言葉だけれど、
本当に自分はどうしようもない馬鹿だと思った。
底抜けの馬鹿だ。
由美を泣かせた。
梓までも泣かせてしまった。
太一や香苗の親切心に甘えていた。
何一つ分かっちゃいなかった。
由美は引っ越す。
確かに聞かされていなかったかもしれない。
でも聞き出すチャンスは何度もあった。
由美に言いにくさせていたのは自分自身だったのかもしれないのだ。
会って話がしたい。
話をしなければならない。
由美は何処にいるだろうか。
連絡を取って──いや、取らなくても分かる気がした。
もうすぐ日が暮れる。
否、もう暮れている。
由美は今、きっとあの場所にいる。
二人が始めて出会った場所。
正確にはそれは学校なのだけれど、全てはあの日、あの場所から始まったのだ。
ようやく鳥ヶ浜駅に着き、改札に定期券を通し、
篠山方面の階段を昇り、ちょうど滑り込んだ急行に乗り込む。
席は空いていたが、座っている余裕なんてない。
とにかく、いち早くあの場所へ。
全てが始まった思い出の場所。
大野山へ──
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