オリオニア(20)
信也の予想通り、由美はそこに居た。
日はすっかりと暮れて、街灯のない真っ暗闇の中に、一人ポツンと立っていた。
途切れる息を整えながら、由美に近付く。
由美は初めは驚いたような表情をしていたが、すぐに訳を察して、星空に視線を戻した。
信也は、一瞬見えた由美の瞳の中が真っ赤だったことに気が付いていた。
「あっちゃんから、全部聞いた?」
「……あぁ」
「黙ってて……ごめんね」
ここまで走って来て体の暖まっている信也には分からないが、実際には相当寒いらしい。
由美は、小刻みに体を震わせていた。
いや──それは、寒さだけのせいではないのだとすぐに悟った。
「いつ、神戸に行くんだ?」
「今月末」
不気味なくらいの静けさが、辺りを包み込む。
しばらくして、信也の呼吸がようやく整って来たところで、由美はゆっくりと話を始めた。
「本当は、修学旅行から帰って来たその日から知ってたの。でも、言えなかった。
告白して貰ったばっかりなのに、いきなりそんなの、どうしても言えなくてさ。
だけど、それじゃいけいと思って、何度も言おうとしたんだけど、どうしても言えなくて」
ガードレールに手を掛け空を見上げながら由美は語った。
信也は、そっとその隣りに立って、同じように空を見上げた。
「光弘が……私の弟がね、お母さんに引っ越しの話を聞かされた時に、
付き合ってる彼女と会えなくなるって、文句言ったらしいの」
意外な方向に話が転んだと思い、信也は由美の顔を覗き込む。
由美は少し照れたように笑って見せながら、また話を続けた。
「そうしたら、お母さんに言われたんだって。光弘ぐらいの年頃の子は、
真剣に恋愛なんてしてないんだから、わがまま言わないの、って。
そしたら光弘、カッとなって、お母さんと口論になっちゃって」
黙って由美の話を聞きながら、信也は昇り始めたオリオン座の方を眺めた。
キラキラと眩く光る星たちは、どれも綺麗だった。
「私、凄いなって思ったの。好きな人のことで、
そこまで本気で怒れる光弘が、凄いなって思ったの。
私はさ、ただ一人で泣いてるばっかりでさ。
信也君には迷惑とか心配とか掛けて、
何一つ彼女らしいことなんか出来なくて」
泣いてしまいそうになったのか、由美は服の袖で瞼を擦った。
由美の吐息が、白く立ち上ぼる。
汗が渇いて身に染みるような寒さを堪えながら、
信也は意を決したように由美の方を向き直った。
「ずっと、一人で悩んでたのか」
「……ごめんね、本当は信也君に相談するべきだったんだと思う。
でも、本当にそれで良いのかなって思って。
だって、信也君に頼るのは簡単だけど、でもそれじゃあ、たとえば
私が神戸に引っ越しちゃったら、誰も頼る人なんていなくなっちゃうのに……」
「いるよ」
言葉を遮るように力強く信也が言うと、由美は少しビックリしたような表情で振り返った。
「神戸に行ったって、俺に頼れば良い。そりゃあ、
直接会って話せないけど、携帯だってある。
頼ってばっかじゃいけないかもしれないけど、
少しくらい頼ったって、罰は当たらないんじゃないかって、俺はそう思うよ」
「信也君……」
「俺だって……俺だって由美に、まだ何にも彼氏らしいこと、
ほんと何一つ出来てないんだよ。だから……」
不意に言葉に詰まって、信也は地面に目を落とす。
しかし、すぐに思い直して、顔を上げた。
逃げてばかりはいられない。
そう思って由美を見つめ直すと、由美は真直ぐに信也の瞳を見つめ続けていた。
「だからもう、一人で悩むなよ。俺がどれだけ由美の助けになれるかは分からないけど……
絶対に、もう由美に辛い思いはさせたくないから……」
「……ありがとう」
恥ずかしそうに、由美は答えた。
「ごめんね、私、馬鹿だからさ」
「俺の方こそ、ごめん」
「信也君は、悪くないよ」
「いや、ごめん」
しばらく、心地良い沈黙が流れて、不意に、由美が笑い出した。
釣られて信也も笑う。
安堵の気持ちが胸から溢れ出す。
久々に由美の笑顔を見れた。
本来なら恋人同士当たり前のことが、すごく嬉しかった。
嬉しくて、かえって泣いてしまいそうなくらいに。
「よくここに居るって分かったね」
「以心伝心だよ」
「あはは、そうだね」
笑みを零して、由美はガードレールにもたれ掛かり夜空を見上げた。
信也も、それに合わせてオリオン座を見上げた。
三ツ星が、キラキラと輝いている。
「ここは、思い出の場所だからさ。半年前に信也君と出会った大切な場所だから」
「それは……違うな」
失笑しながら、信也は続けた。
「俺たちが出会ったのは、太陽の向こう側だよ」
由美は、信也の言っている意味をすぐに理解して、小さく笑った。
「“オリオニア”」
「当たり」
「ネズミさんの歌の歌詞だよね。香苗ちゃんたちと夏休みにカラオケ行った時に、信也君が歌ってた」
「よく覚えてんな」
「ずっと好きだったんだもん、信也君のこと」
「理由になってねぇだろ」
「えー、ちゃんとした理由だよー」
不貞腐れて言う由美を見て信也が笑うと、由美はプクーッと頬を膨らませて不満を露にする。
もちろん本気で怒っている訳じゃないと分かっているので、信也は構わずに笑い続けた。
「地球は太陽の周りを一年かけて公転してるから……
半年前はちょうど半周分離れた太陽の向こう側に地球はある」
「いちいち説明しなくても良いよ」
と、呆れたように由美。
「悪い」
「もう、ほんと天体好きなんだから」
「でも……今は、星よりも由美の方が、好きだよ」
「ば、馬鹿、何恥ずかしいこと言ってんのよ」
由美が耳まで真っ赤にしながら、呟いた。
信也はそんな由美があまりにも可愛いので、思わず肩を抱き寄せる。
由美は、小さくキャッと悲鳴を上げた。
まだ頬は真っ赤に火照っている。
信也よりも背の低い由美の顔を見下ろすようして覗き込むと、由美はそれとは逆に信也の顔を見上げた。
目と目があう。
心臓の脈打つテンポが、一気にヒートアップする。
しばらくその状態が続いて、由美がそっと目を閉じた。
信也も覚悟を決めて、そっと顔を近付ける。
由美の体温が、仄かに伝わって来る。
ドキドキが止まらない。
ゆっくりと目を閉じた。
息を吐く音が、スーッと静かに聞こえて来る。
唇がフワリと触れて、あまりの柔らかさに心臓が止まりそうになる。
視覚が、聴覚が、一気に感覚を失って行く。
心臓はもう脈打っているのかすらも分からない。
甘いような、何とも形容しがたい味覚と触覚が、ただひたすらに暴走を始めた。
全身に、衝撃が走るような、そんな感覚を覚えた。
頭が真っ白になった。
心には温もりが注がれて行く。
得体のしれない高揚感が体中を駆け巡る。
そっと唇が離れて、そのままゆっくりと瞼を開く。
ほぼ同時に由美も目を開けた。
由美の頬は、まだ真っ赤だった。
照れ笑いを浮かべながら、由美が信也を見つめた。
信也も由美を見つめた。
信也が由美の肩を包み込むように抱き締めると、
由美はそれに抗うこともなく信也の胸に顔を埋めた。
長い長い静寂。
二人は何も口にしなかった。
普通ならつまらないようなそれがこんなにも充実している瞬間は、
多分世界の何処を探しても見つかりはしないだろう。
幸せなんて、そんな一言では片付けられないような感情。
嬉しさと楽しさと喜びを重ね合わせたような高揚感。
これが一生続けば良いのにと、信也は本気で考えた。
「言い忘れてたけどさ」
思い出したように、信也が囁いた。
「……何?」
「明けましておめでとう」
それを聞いて、由美はおかしそうに噴き出した。
抱き合った状態のまま由美は嬉しそうにそれに答えた。
「明けましておめでとう」
「明日は、初詣でに行こう」
「うん」
「冬休みが終わる前にデートしよう」
「うん」
「行き先は……言わなくても分かるよな」
「もちろん」
「付き合う前から言ってたもんな」
「うん」
「今度こそ行こう、プラネタリウム」
「うん」
「それから、いっぱい話そう。由美が引っ越すまでに、いろんなところに行こう」
「うん」
由美の声が、俄かに震え出した。
泣いているのだと分かった。
「神戸に行っても、毎日電話するよ」
「うん」
「絶対毎日電話するから……浮気すんなよな」
「信也君こそ……」
「大丈夫、俺はしないよ」
「……どうだか」
「それから、夏休みになったら、またこっち遊びに来いよ」
「うん、絶対来る」
「待ち合わせ場所は……」
「この場所で、だよね」
「待ってるからな……太陽の向こう側で」
「うん」
「絶対、来いよ。待ってるから」
「……うん」
泣き声になりながら、由美は何度も何度も頷いた。
信也は優しく背中を擦りながら、由美の体をさっきよりもギュッと抱き締めた。
強く、強く抱き締めた。
この腕の中の温もりが、いつまでも消えないように願いながら。
「寂しい、よ……」
由美の台詞に、信也は唇を噛み締めた。
ひたすら由美を強く抱いた。
小刻みに震える背中を、何度も何度も擦った。
洟をすする音が静まり返る辺りに響き渡った。
真っ暗闇の中で、星灯りだけが明るく輝いていた。
二つの一等星を持つオリオンが、力強く地上を見下ろしている。
眩い光が、空一面に敷き詰められていた。
一つ一つの星は、気が遠くなるほど遥か彼方にある。
けれど、由美は信也のすぐ側にいる。
それは、決して手放すことは出来ないもの。
絶えず側にいて欲しいと望むもの。
大切な、大切な宝物。
とても当たり前のようなことではあるが、
そんな当たり前なことをいつまでも忘れないでいられたら良いな、と信也は思った。
困難はあるだろう。
でもきっと大丈夫だと思う。
オリオニアの歌が、そう語ってくれている。
二人なら大丈夫だ、と。
──あの太陽の向こう側には、半年先の君がいるから。
オリオニア 完
設定資料
戻る