オリオニア(18)


あけおめ、だの、ことよろ、だの、やる気のない年賀メールをカチカチと読み下していると、
いつの間にか時間は正午を回っていた。
携帯をパチッと閉め、ザワザワと笑い声の聞こえるテレビ画面へ視線を移す。
何やら怪しげな特別番組が始まったらしい。
いかにもつまらなさそうで、信也はテレビの電源を切った。
シンと静まり返った部屋で吐き出した溜め息が、無性に大きな音に聞こえてならない。
大きな溜め息の理由は、単純明快だ。
由美からの年賀メールが届いていなかったのだ。
それどころか、ダブルデート、もとい初デートになるはずだった十二月末のあの日以来、
由美とは一度も連絡を取っていなかった。
取れなかったのだ。
情けない話だと思う。
ただ、何と声を掛けたら良いのか分からない。
あの日、由美は泣いていた。
何か一人で悩みを抱え込んで、涙を流していた。
何故かは、話してくれなかった。
無理にでも聞き出すべきだったのかもしれない。
いや、きっとそうだったのだろう。
恋人として、由美の彼氏として、そうすることが当然の義務だったのかもしれない。
でも、信也には分からなかったのだ。
下手に励まそうとすれば、かえって傷つけるかもしれない。
本当に由美が悩みを抱えきれなくなったときは、きっと信也に相談しにくるのではないか。
そうだ、そうに違いない。
だから、向こうから話を持ちかけてくるまでは──
そんな考えが邪魔をして、由美に真実を尋ねる決心を鈍らせる。
このままじゃいけない。
そんなことは分かっている。
けれど、勇気が足りない。
傷つけるのが怖い。
信也が告白して、やっと付き合うことが出来たというのに、
まだまともにデートもしないうちから、傷つける羽目になるのは嫌だった。
「俺って……単に逃げてるだけだよなぁ」
悟ったように、ポツリと囁いてみる。
逃げているだけ。
そんなことは、分かっている。
分かっているけれど──
思い直して、信也は握り締めていた携帯を再度開き直した。
そしてアドレス帳から、太一の番号を探り出すと、その番号にダイヤルした。


「悪い、待たせたな」
太一が、鳥ヶ浜の駅前で待っていた信也にそう言った。
あまり申し訳なさそうな感じの言い方ではなかったが、
別に特段待たされた訳でもないので、信也は気に留めず行こうか、と促した。
「で、話って何だよ」
息をつく間もなく太一が尋ねてきた。
「いきなり、本題かよ」
「そのために呼び出したんだろうがよ」
「まぁ、そうだけどさ」
並んで学校の方へ向かって歩きながら、信也は苦々しく笑った。
「倉橋さんとのことだろ」
太一があまりに珍しく勘がするどいので、信也は目を丸くして太一の顔を覗き込む。
すると、太一は少し不機嫌そうな表情をしてみせた。
「なんだよ、分かんねぇとでも思ったのかよ」
「悪い、正直、驚いた」
「あのな、俺は、こう見えてもお前より恋愛経験は豊富なんだぞ」
太一が真顔で言うものだから、信也が噴き出して笑うと、釣られて太一も小さく苦笑いを浮かべた。
「松本さんと、一応うまくやっていってる訳だもんな」
「そういうことだ」
信也が納得したような表情を見せると、太一は満足そうに頷いた。
まだ本題には触れてさえいないが、太一と話をしただけで、少し肩の荷が下りたような気がする。
こんな馬鹿でも、時には役立つ時もあるってことだ。
──いや、正直、かなりありがたい。
「で、どうしたんだよ。こないだのダブルデートの予定だった日、なんかあったんだろ」
「そこまでお見通しかよ」
「普通分かるぞ」
「……そうか」
道端の石ころが靴に当たって、カカッと冷たい音を立ててアスファルトの上を転がっていく。
信也は、その石ころが静止するのを見届けてから、ようやく顔を上げて話を始めた。
「由美、なんか悩みを抱えてるらしいんだ」
「悩み?それくらい、誰だってあるんじゃねぇのか?」
茶化すように、太一が笑う。
が、信也の真剣な面持ちに気付いて、慌てたように尋ね返した。
「何の悩みかは、分からないのか?」
「分からないから困ってるんだよ」
街路樹の隙間から毀れる日の光が眩しくて、目を細める。
寒さに身を震わせて空を見上げると、太陽はだいぶ西に傾き始めていた。
「なんで悩み抱えてるって分かったんだ?」
信也は、太一のその問いかけに少し考えるようにしてから答えた。
「本当は、あの時、由美もいたんだよ」
「あの時って……ダブルデートの待ち合わせの時か?」
「あぁ」
小さく息を吐くと、白い蒸気がモクモクと空へ上がっていくのが分かる。
何度か深呼吸を繰り返して、その度に吐息が空気に紛れて消えた。
「そん時、突然泣き出したんだ」
「……お前が泣かせたんじゃないのか?」
「違ぇよ、そんなんだったら、今頃ちゃんと謝ってるよ」
「まぁ、そりゃそうか。で、泣いてる理由が分からなくて困ってる、と」
「そうなんだよ。下手に励ますと、かえって傷つけそうで怖いし、
 俺、どうしたら良いのか、よく分かんねぇんだ」
曲がり角を左折して、ようやく学校の門が見えてきた所で、信也は深く溜め息をつく。
太一はしばらく黙り込んだまま空を見上げていた。
真剣に信也の悩みに対峙してくれているのだと分かって、なんだか嬉しくなった。
こんな真顔で物を考える太一をあまり見たことがないだけに、その嬉しさも一入だった。
「ちゃんと、訳は聞いた方が良いだろうなぁ」
空に広がる雲を這わせていた視線を、信也の方に移しながら、太一は答えた。
「なんで泣いてたのか聞かないことには、前には進めないだろ。
 たとえそれで傷つけてしまったとしても、だ」
「……そうかな」
「そうだよ。向こうだってきっと、聞いて欲しいと思ってる」
「……そうかな」
太一は小さく笑って、信也の肩を力強くバシッ、バシッと叩いた。
「しっかりしろよ、男だろ、お前は」
「痛っ、痛ぇよ、馬鹿」
「はっは、馬鹿で結構」
「開き直んな、馬鹿」
苛立つように口調を荒げながら、その一方で太一の心使いを身に染みて感じていた。
太一の方も、そんな信也の心情を察しているらしく、
そんな信也の対応に腹を立てることもなく、むしろ満面の笑顔を浮かべた。
「大いに悩め、少年よ」
ニタニタと笑いながら、太一が言った。
太一の発言に思わず噴き出して笑いながら、信也は答える。
「何様のつもりだよ、馬鹿」
「ほんと、お前は馬鹿馬鹿言うの好きだな」
「うるせぇ」
なんとも心地の良い沈黙がしばらく続いた。
空の上を一際速い速度で雲が流れていった。
風が葉の一枚もついていない枯れ木の枝をカチカチと揺らした。
冷たい冷たい風が信也の頬を吹き付けて、ブルブルと体を震わせる。
息は白く、空は青い。
隣で静かに笑う太一が、満足気に伸びをする。
合わせて、信也も小さく伸びをする。
肩の力が、ゆっくりと抜けていくのが分かる。
「ありがとな」
信也が言うと、太一が、驚いたように笑った。
「お前、俺にお礼とか言うようなキャラしてたか?」
「てめぇ調子に乗りやがって……もう二度と礼は言わねぇ」
「わ、悪ぃ、冗談だって」
「いや、もう絶対に言わん」
「悪い、許せって」
「許さん」
「許せ」
「許さん」
「許せよ」
「しつこい、馬鹿」
「馬鹿はあんたよ」
突然、女の子の声が間に割って入ってくる。
驚いて、二人同時に振り返ると、そこには梓の姿があった。
「向井……さん、どうかしたの?」
「どうかしたの、じゃないわよ」
「ってか、今日正月だけど、どうしてここに……」
「香苗ちゃんに聞いたのよ、村上君なら、大森君を呼びつけて学校の方に行ったって。
 大森君、さっきまで香苗ちゃんと一緒にいたんでしょ?
 村上君に呼ばれて彼氏取られたってちょっと落ち込んでたわよ」
「何が言いたいんだよ」
梓の発言の意図が読めず、苛立ちながら信也が言った。
今度は、さっきとは違って本当の苛立ちだ。
「……大森君、ちょっと外してくれる?」
「ん……まぁ、良いよ。ってか、俺、帰るな」
「……悪い」
ただならぬ状況を察したらしい太一は、そう言って鳥ヶ浜駅の方へ向かって歩き出した。
信也はそれを見送ってから、何故か怒り心頭な梓に対峙した。
「ゆーちゃん、泣いてたよ」
太一が立ち去るや否や、梓は開口一番にそう呟いた。
あまりのことに驚きを隠せずにいると、梓は信也を睨み付けるようにして迫り寄った。
「ゆーちゃん、泣いてた」
「……知ってる」
信也の返答に、呆れたように梓は溜め息をついた。
「じゃぁ、なんでこんなところで大森君と話なんかしてるのよ。
 私言ったよね、ゆーちゃん泣かせたら、私が許さないって。
 そもそも、ゆーちゃんがどんな思いでいるか、知ってるの?
 もう村上君に会えなくなるかもしれないって分かった時のゆーちゃんの気持ち、
 分からない訳じゃないでしょ?それなのに、村上君は……」
「ちょ、ちょっと待てよ」
感情的になって物を言う梓を宥めながら、信也は梓の今の発言に違和感を感じた。
“もう村上君に会えなくなるかもしれないって分かった時のゆーちゃんの気持ち”って何だ?
「待てない」
「いいから、落ち着けって」
強い口調で信也が言うと、梓は口篭り、ゆっくりと深呼吸して息を整えた。
フワリと、梓の前髪が動く。
凍て付くような風が、暑く火照った梓の頬を冷ます。
しばらく無言の状態が続いた後、梓が目を伏せたまま口を開いた。
「ごめん、少し、感情的になりすぎた」
「いや……、それは良いよ。ただ……」
信也は、息を呑んだ。
そして深く息を吸い込んで、さっきから考えて居た疑問を吐き出した。
「もう俺に会えなくなるって、どういう意味だ?」
「……え?」
意表をつかれた様に、梓はポカンと口を開けた。
「さっき、“もう村上君に会えなくなるから由美がどうのこうの”って、言ったろ?」
「……もしかして、ゆーちゃん、話してないの?」
不安そうに、梓が尋ねた。
信也は、由美との過去の会話を思い返しながら、思い当たる節を一つだけ思い出して、それを口にする。
「そういえば、この間、俺に言っておかなきゃならないことがあるって……
 でも、何も話してくれなくて、泣いて帰っちゃって……もしかして、向井さん、何か知ってるのか?
 だったら、教えてくれよ、由美は、俺に何を隠してるんだ?」
梓は、それに答えようとして、しかし言い辛そうに口を閉ざした。
俯いて、でもすぐに顔を上げて、信也の目を見つめた。
覚悟を決めた梓が、ゆっくりと口を開いた。

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