オリオニア(15)


「ただいまー」
自分で鍵を回して、玄関のドアを開ける。
返事がない。
代わりに、家の奥から由美の弟である光弘の怒鳴る声が聞こえてきた。
母と親子ゲンカでもしているのだろうか。
とはいえ、普段はへらへら能天気な光弘が、あんな声を出して怒鳴るなんて、
この倉橋家で初めてのことなのではないだろうか。
とにもかくにも、せっかく人が修学旅行から帰ってきたというのに、なんだか感じが悪い。
由美は背負っていた重たい鞄を廊下の隅に放り出すと、声のする居間の方へ足を運んだ。
「どうかしたの?」
言いながら部屋に入ると、母が息をついた。
母は、何故だか急に老いたような表情をしていた。
「由美……帰ってたの」
「ううん、今帰って来たとこ」
あまり居心地の良さそうな雰囲気ではなかったが、帰ってきて何も言わずに通り過ぎるのもバツが悪い。
だからとりあえず声だけ掛けてさっさとこの場を立ち去ろうと思っていたが、
かえって余計に居間から離れられなくなってしまった。
見てみぬ振りを出来る様な状況ではないようだった。
ふと、光弘が睨むように由美を見ていたのに気づいた。
一瞬うろたえたが、負けないようにキッと光弘の目を覗き込む。
「光弘……あんた、なんかやったの?」
「……るせぇ、そんなんじゃねぇよ」
捨て台詞を吐いてから、入り口付近に突っ立っていた由美を押しのけて居間を出て行った。
何がなんだか分からなくなった由美は、事情を説明して貰おうと母親の方を振り返る。
しかし、母は何も答えない。
それどころか、由美から目を逸らして12を通り過ぎようとした時計の秒針をじっと眺めていた。
「……私、ちょっと疲れたから、部屋で休んで来るね」
出来るだけ明るく話しかけると、ようやく母は由美を振り返り、そしてゆっくりと頷いた。
相変わらず、申し訳なさそうな笑顔を浮かべながら。
後退りしながら居間から立ち去ると、
玄関に鞄を置きっぱなしにしていたことを思い出し、それを取りに行く。
手に取るとズシリと重いそれを持ち上げて、肩にかけた。
脱衣所へと廊下を進みながら、肩越しに洗濯物を取り出す。
なんとか出し終えたところでちょうど脱衣所に辿り着いたので、
それらを洗濯籠に押し込んでからすぐ横の階段を上った。
開いた鞄のチャックをジジジッ、と閉めながら進むと、
二階の一番手前の部屋の前に光弘が立っているのが見えた。
由美は声をかけるかどうか少しためらっていたが、
階段の最後の三段を上り終えたところで、ようやく話しかける決心がついた。
「何かあったの?」
目を合わせず、光弘の前を通り過ぎながら由美は尋ねた。
「……ごめん」
俯いたまま答える光弘に驚いて、由美は歩みを止めて振り返った。
「なに謝ってんの、調子狂うなぁ」
呆れたように小さく笑いながら、深く溜め息をついた。
そして少し考え込んでから、すぐ隣の由美の部屋を指差した。
「まぁ、ちょっと入りなさい」
言いながら、弟を部屋に入れるのなんて、何年ぶりだろうか、と考えた。
姉弟とはいえ、性別が異なるせいか、最近はお互い部屋に入ることなどなかった。
特段仲が悪いわけではいと思っていただけに、意外な感じがした。
重い鞄のせいで右手がふさがっているので、左手でドアノブを回す。
開けると、中は修学旅行の前と何ら変わらずそのままの雰囲気を保っていた。
我が家の中で、ここだけ時間が止まっていたかのような錯覚に陥った。
「何で怒ってたの?」
鞄を机の上に下ろしながら、由美は尋ねた。
光弘は、部屋の入り口で遠慮がちに立ち尽くしていた。
「別に、怒っちゃなかったけど」
「怒ってたじゃん、お母さん、困ってたじゃない」
ベッドに飛び乗るように腰を下ろすと、中のバネが弾んで視界が揺れる。
光弘は、後ろ手にドアを閉めてから、部屋の中央にゆっくりと腰を下ろした。
「修学旅行、どうだった、楽しかった?」
由美は、光弘が話を誤魔化そうとしていることに気付きながらもそれに笑顔で答えた。
「まぁねー」
生意気な弟だとはいえ、何やら落ち込んでいる様子なので、
元気付けようと無理やり明るく振舞いながら言った。
光弘は、それを見透かして、小さく苦笑いを浮かべた。
「彼氏でも出来た?」
思わずむせ返りそうになるのを堪えながら、由美は口元を歪ませてみせた。
が、それを見た光弘は黙って俯いた。
マジで、なんて驚きながら調子に乗ってズバズバと聞いてくると踏んでいた由美にとって、
光弘の反応は意外だった。
今回ばかりはそんな反応を期待していたのに、だ。
とにもかくにも、今日の光弘は何かがおかしい。
「何があったのよ」
少し間を置いてから、光弘が答えた。
「あいつ、俺らのこと馬鹿にしやがったんだ」
由美は、“あいつ”というのが、母親のことであると瞬時に悟った。
「俺ら?」
「俺と恵のこと」
「恵って、光弘の彼女だっけ?」
光弘は、黙って頷いた。


「よっと、着いた、着いた」
独り言を口にしながら、信也は空を見上げた。
久々に見上げた、大野山からの星空。
京都や奈良では見られなかった、綺麗な夜空だった。
「やっぱり、ここからの空が一番だよなぁ」
誰もいない丘から一人で呟きながら、遠くの街を見下ろす。
と言っても、街灯りなんてほとんど目立たない。
だからこそ、星空が綺麗に見えるのだろうけれど。
不意に、制服のポケットから携帯電話を取り出す。
カメラに切り替えて夜空を写してみようと試みるが、うまく写らない。
携帯のカメラなんて、その程度のものでしかないのだ。
「由美の笑顔だったら、綺麗に写るのになぁ」
呟いてみて、そんな自分が恥ずかしくなる。
なんだか、今凄く恥ずかしいことを口走ってしまったのではないだろうか。
顔が火照る。
涼しい秋の風が、それを和らげようと頬を撫でてくれた。
自分自身を誤魔化すためキョロキョロと空に視線を彷徨わせると、
遠くの方にペガスス座の大きな四角形が見えた。
「ペガスス座51番星には惑星があるんだぜ」
誰にともなくそう話しながら、携帯のカメラの標準をペガスス座に合わせる。
画面を覗き込むが、当然そこには真っ暗な闇しか写らない。
「太陽系以外で初めて発見された惑星、かぁ」
小さく溜め息をつく。微かに、息が白んだ。
冬の気配を感じた。
「すぐ側にあっても見つからないものもあるのにな」
自分の呟いたことに一人で納得しながら、信也は携帯の画面を閉じた。
何度も何度も頷いて、そして携帯をポケットに捻じ込む。
やっとこさポケットに納まったそれに満足しながら、
ガードレールに沿って坂の下の方を見た。
今日は、由美が来る気配はないらしい。
なんとなく、彼女が来てくれることを期待していたが、そうも上手くはいかないようだ。
「せめて目に見えてるものくらいは、大切にしないとな」
嬉しそうな由美の笑顔と、そして寂しそうな梓の笑顔とを
記憶の中でダブらせながら、信也はゆっくりと坂道を上って行った。
今日の夜空は、信也にとっていつもより綺麗に輝いているような気がした。
それは、由美のおかげなのかもしれないな、なんて考えながら、
サワサワと風に揺れる木の葉の音を耳にする。
これから何があるかなんて分からないけれど、
いつまでもこの空を見ることが出来たら──。
そんなことを考える信也の後姿を、ペガススは穏やかな表情で見下ろしていた。

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