オリオニア(10)


「良い人だね」
「え?」
由美は、夕日に照らされた梓の顔を覗き込んだ。
梓は、由美とは目を合わせないまま、どこか遠くの方を見据えて答える。
「良い人だよね、村上君」
「……うん、そうだね」
満面の笑顔で、由美は頷いてみせた。
梓の、肩まで伸びた柔らかい髪が、ゆらゆらと風に揺れている。
見上げた空の先で、真っ赤に染まった太陽が地上を見下ろしていた。

目が覚めると、真っ白な天井が目に飛び込んで来る。
由美は小さく欠伸をしてから、ゆっくりと起き上がった。
ぼんやりとした記憶を振り払うように伸びをして、それからまた天井を見上げた。
夢。
懐かしい夢を見た。
今思えば、由美が信也のことを意識し始めたのは、おそらくあの頃のことではなかっただろうか。
それは高校一年生の時の話だ。
夏の暑さがようやく退いた、ある秋の日のことだった。

「えー、この文章の主語が何かと言うと、
 当然このpeopleという語だから、日本語に訳すとー」
しんと静まり返った教室内に、念仏のように低い声だけが響き渡る。
眠い。非常に眠い。
教室の中を見渡してみると、何人かの生徒は既に夢の世界へと旅立ってしまっていた。
そして、ふと隣の席を見ると、そこに座っていた女の子が、
ノートに何かを必死になって書いているのに気づいた。
どうも、黒板の板書、ではないらしい。
「何、書いてるの、あっちゃん」
由美が恐るおそる話しかけてみると、その女の子──向井梓は、由美の方を向いて小声で答えた。
「似顔絵」
「誰の?」
「オハゲさん」
梓の返答に思わず噴き出して笑ってしまいそうになるのをなんとか堪える。
授業中に大声を出して笑うわけにはいかない。
ちなみに、オハゲさんとは、今授業をしている藤岡先生のあだ名だ。
と言っても、それは特に女子の間で使われているあだ名で、
男子たちは“あのハゲ”とか“ハゲ岡”なんて言っていたりするけれど。
名前の通り、学年主任でもある彼の頭頂部は、ものの見事にハゲているのだ。
そして、彼はクラス中、いや、学年中のみんなから嫌われていた。
いろいろと口うるさいことで有名な教師だった。
「似顔絵って……ちょっと見せてよ」
「えー、まぁ、良いけど」
そんなことを言いつつも、梓はなんだか嬉しそうに笑いながらノートを由美に手渡した。
由美はそれを受け取ると、ノートの上に描かれたオハゲさんの似顔絵と教師の顔を見比べた。
似ている。非常に似ている。
「なに、これ……あはは」
耐え切れずに、声を上げて笑う。
梓の方も、由美につられて笑い声をあげてしまっていた。
そう、それがまずかった。
「何を笑ってるんだ、そこ」
藤岡のその声で、二人は我に返る。
しまった、と後悔しても遅い。
とりあえず、似顔絵が見られると不味いので、大慌てでノートを机の中にしまおうとした。
が、既に藤岡は二人の席の前まで歩み寄って来ていて、それも出来なかった。
「貸しなさい」
「……」
「貸しなさいと言っているんだ」
ただ二人が押し黙っていると、藤岡は由美の手から無理やりノートを奪い取ろうとする。
これだけは、見られるとまずい。
藤岡の、しかもハゲ頭を強調した似顔絵が描いてあるのだ。
見られたら、どれだけ怒られるか分かったもんじゃない。
ふと、クラス中の視線が由美たち二人の方に集まっているのに気づいて、
なんだかすごく恥ずかしくなった。
「や、やめてください」
「手を離せ」
「別に、何もないですから」
「何もないんだったら、ノートを見せても構わないだろう」
「で、でも……」
由美は必死でノートを取られないようにしていると、
不意に後ろの方でガタガタと机の動く音がした。
「っせぇーなー、もう、寝られねぇだろーが」
その声に反応して、由美は教室の後ろの方を振り返った。
いや、由美だけじゃなくて、梓も、藤岡も、クラス中全員が後ろを振り返る。
「村上、何か言ったか」
藤岡が、怒気のこもった低い声で、そう言った。
由美の掴んでいたノートから手を離すと、ゆっくりと信也の方に歩み寄って行く。
「へ……って、あれ、あ、今の、声に出てました?」
「はぁ?」
「やっべ……いや、あの、すいません、ちょっと寝ぼけてて……」
しどろもどろしながら言う信也の様子を見て、
教室中の至る所からクスクスと笑う声が聞こえてきた。
が、それも次の藤岡の怒鳴り声でいっせいにしんとなってしまう。
「何を馬鹿のことを言っとるか!」
「いや、だから、その、すいません」
「お前、今寝とったんだな」
「はい」
「はい、って答える奴があるか!」
「いや、でも、実際寝てましたし」
「俺の授業で寝るとは良い度胸しとるじゃないか、え?
 しかも俺の言うことにいちいち口答えするしなぁ」
「別に、度胸なんてなくても眠かったら寝られますけど」
「何ぃ?」
「あ、いえ、何でもないです」
「お前、俺を舐めてるのか?」
「いえ」
「舐めとるだろ、調子に乗るな」
「はぁ、すいません」
「はぁ、じゃないだろ、はぁ、じゃ。もう良い、村上、あとで職員室に来い、良いな」
「はぁ……分かりました」
怒った様子のまま、藤岡は教壇へ戻ると、無言でアルファベットを黒板に書きなぐり始めた。
こんな状況でも授業を進めようとするあたりが、さすが教師と言うべきか、さすが藤岡と言うべきなのか。
とにもかくにも、由美と、そして梓にとって、ひとつだけ分かるのは、
信也のおかげで二人は難を逃れたらしいこと。
それから、二人のせいで、信也が怒られる羽目になったこと。
ふと梓の方を見てみると、彼女は後ろの席の方を見やっていた。
「後で、謝っといた方が良いかな」
「うん……多分」
梓の問いに頷きながら、由美も後ろの席の方を振り返ってみる。
信也は、無愛想にしながら教室の窓の外を見ていた。


放課後になって、日が暮れだした頃になって、ようやく職員室の扉が開いた。
「失礼しましたー」
一人の男の子が、深くため息をつきながら扉を閉める。
由美と梓の二人は、それを心配そうに見つめていた。
「あ、あの……」
由美が、恐るおそる声をかける。
信也は、それに気付いて振り返ると、無愛想に答えた。
「何?」
ちょっと不機嫌そうな感じがしたので、由美が二の句を告げずにいると、
隣にいた梓が、代わりにゆっくりと口を開いた。
「その……ごめんね」
「……何が?」
「いや、だから、その、私たちのせいで、村上君、
 藤岡先生に怒られちゃった訳だし……」
「二人のせい?何で?」
「え?」
話が理解出来ない、といった様子の信也に、梓は驚いた。
「あ、もしかして、村上君寝てたから、
 私たちが怒られてたこと、知らないとか……」
「え、二人、あのハゲに怒られてたの?」
苦笑いを浮かべながら言う信也に、梓は思わず溜め息をついた。
とりあえず、由美が二人が怒られた理由を簡単に説明すると、
その話に信也は小さく笑ってみせた。
「なるほどね、それで怒鳴ってたのかあいつ。
 いや、なんか夢の中であのハゲが怒鳴っててさ、
 まさか実際に怒鳴ってたとは思わなかったな」
「そ、そうなんだ……」
信也が笑うのにつられて、二人も苦笑いを浮かべる。
二人の話を聞いても、怒る様子のない信也に、由美は安堵したけれど、
かえって信也に悪いことをしてしまった、という気持ちが強くなった。
なんだかそんな罪悪感が、拭っても拭いきれなかった。
「ほんとに、ごめんね、その、私たちのとばっちり食らったみたいになっちゃって」
「あぁ、別に、そんなの気にしなくても大丈夫だよ」
「でも……」
「まぁ、本当に悪いと思うんだったら、授業中に似顔絵なんて書かずに、
 ちゃんと授業聞いとけよ、今度から」
「う、うん、ごめんね、そうする」
「って、授業中に寝てた俺が偉そうに言えることじゃねぇけどな」
信也が笑いながらそう言うのを見て、由美も少し気が楽になった気がした。
「それより、二人とも、部活は?二人ともバレーボール部かなんかじゃないの?」
「あ、うん、そうだけど、今日は、休みだったから……」
「え、じゃぁ、もしかして、俺に謝るためにこんな時間まで残ってくれてた訳?」
「う、うん……」
「マジで?別に、わざわざそんなの良いのに……
 なんか俺の方が悪いことしが気がするじゃん、ごめん」
「そんな、それは、別に……」
「とりあえず、俺ももう帰らなくちゃなんねぇし、
 早くしないと、星が……」
「え?早くしないと、何って?」
「いや、何でもない、それじゃぁ、二人とも気を付けて」
苦笑いを浮かべながら信也は言うと、そそくさと廊下を走り去って行った。
ぽつんと職員室前に取り残された二人は、
窓の外で空が真っ赤に染まり始めているのに気が付いた。
「私たちも、帰る?」
「……うん」
梓の問いかけに由美は頷いてみせると、
二人は誰もいない廊下をゆっくりと歩き始めた。
昇降口で靴を履き替えて、校舎の外へ出ると、
東の方の空がすっかりと真っ暗になってしまっていた。
「うわ、もうこんな時間だ」
携帯電話の時計を見ながら、梓が呟いた。
由美も自分の携帯電話を取り出してみると、デジタル時計の文字が17時10分を指し示していた。
「本当だ……」
西の空のまだ赤い日の光に照らされながら、二人は急ぎ足に鳥ヶ浜の駅を目指した。
しばらくの間、二人は無言で歩き続けていた。
夏まではうるさかった蝉の鳴き声も、もう聞こえない。
本当に静かな夕暮れの帰り道だった。
交差点を右に曲がった辺りで、ようやくその沈黙を破ったのは梓だった。
「良い人だね」
「え?」
由美は、夕日に照らされた梓の顔を覗き込んだ。
梓は、由美とは目を合わせないまま、どこか遠くの方を見据えて答える。
「良い人だよね、村上君」
「……うん、そうだね」
満面の笑顔で、由美は頷いてみせた。
梓の、肩まで伸びた柔らかい髪が、ゆらゆらと風に揺れている。
見上げた空の先で、真っ赤に染まった太陽が地上を見下ろしていた。

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