オリオニア(8)


その日信也が目を覚ましたのは、午前九時過ぎのこと。
携帯電話の着信音によって起こされた。ふいに、その音がプツリと途切れる。
無意識のうちに掛け布団から伸びた右手が、ベッドのすぐ側にある机の上に置かれた携帯を掴んでいた。
眠い目を無理やりこじ開けて、サブウインドウに表示された文字を見ようとする。
なかなかピントが定まらない。ようやく視界がはっきりしてくると、
目に飛び込んだのは「新着メール 5件」という文字だった。
メールかよ、誰からだろう。
──ってか、五件?
まだ完全に眠りから覚めない頭のまま、携帯を開く。
受信ボックスの一番上にあるメール。差出人は、太一だ。
受信日時は、九時十二分。
ついさっき受信したメールだろう。
表示、のボタンを押すと、文字の羅列が画面に並んだ。
っと言っても、羅列というには短すぎる文章だ。

『起きろハゲ』

──はぁ?
あの馬鹿、一体何様のつもりだ。
ちょっと不機嫌になりながら、次のメールを開く。
『差出人:太一 受信日時:九時一分』
ピッ。

『起きろって、おい』

何なんだよ、あいつは。意味分かんねぇよ。次だ、次。
『差出人:太一 受信日時:八時四十九分』
ってか、また太一かよ。
ピッ。

『お前、まさかまだ寝てんだろ?』

──寝てて悪いのか、夏休みだってのに。
朝早くから本当に意味の分からない奴だ。
次のメール。
確か、新着メールは四件だから、未読はあと二通のはずだ。
『差出人:太一 受信日時:八時三十分』
またあいつか──。
何なんだよ、一体。
いや、マジで。
いよいよボケたか、あいつも。
ピッ。

『おいおい、遅刻かお前』

遅刻?何のことだ?
ほんとにいよいよボケたか。
今日は夏休み──っと、ふと思い出して布団から起き上がり、携帯を一旦閉じる。
サブウインドウに表示された日付は、八月五日。
いや、まだ夏休みではある。充分にまだ夏休みだ。間違いない。
でも、だ。確か、登校日とか言うのがあった気がする。
ボケていたのは、俺の方じゃないか。不覚だ。
──ちょっと落ち込むんでも良いだろうか。
とにもかくにも。高校生にもなって、何が登校日だか、意味が分からないが、
高校二年の夏は、進路関係の話を聞かされるらしい。
くそ暑い体育館で。正直、かったるい。
でも、進路関係の話だとか、一応大学進学を考える信也には、サボる訳には行かないことだ。
いや、でも、多分、大した話じゃないような気はする。
でも、万が一に大したことある話だったら。
ってか、大したことある話ってなんだ?
あぁ、もう、面倒臭ぇ。もうどうでも良いや。
よくよく考えたら、今から家を出たところで、どの道学校に着く頃には話は終わっているに違いない。
寝坊してしまったものは仕方ないのだから、今日はゆっくりとサボろ──いや、違った、休もう。
そうだ、今日はきっと気分が悪いんだ。
そうに違いない。そういうことにしておこう。
──っと、まだもう一通メールが残っていたんだっけ。
思い出して、信也はまた折りたたみ式の携帯電話を広げた。
そして、まだ未読ランプが点灯したままのメールを開く。
『差出人:太一 受信日時:二十三時五十五分』
──って、また太一かよ。
しかし、これは昨夜に届いたメールだ。
そういや、昨日は夏バテで少し早めに寝たんだ。
いつもなら、夜中の十二時なんて、家の窓から星空を眺めている時間帯だ。
とりあえず、メールを開いてみる。

『ジャイアントネズミのアルバム買ったって言ってただろ?明日悪いけど貸してくれ! ってか、貸せ』

あんの野郎。そういうことはアルバム買った話をした時に言え、馬鹿。
ってか、命令すんな、馬鹿。
結局学校行かなくちゃならねぇじゃないか。
無視する、というのも手。
でもたいていの奴は、ジャイアントネズミっていうネーミングに笑うだけだが、
あいつは、ジャイアントネズミの曲の良さを唯一理解してくれる仲だからな。
貸してやらない訳にはいかない。
要するに、同士だ。同士は大切に。
いや、よく考えたら、今はそんなことはどうでも良い。
いち早く学校へ行かなければ。
ベッドから起き上がった信也は、壁にかかっていた制服のポケットに携帯電話を捻じ込むと、
大慌てでそれに着替えて、部屋を飛び出した。

学校へ向かう電車の中で、信也は簡単な事情を太一にメールした。
案の定笑われたが、せっかくCDを貸しに学校へ向かっているのに、
先に帰られたりでもしたらたまったもんじゃない。
交通費が無駄になる。
夏休みの間に、定期券の期限が切れていたのだ。
片道で三百二十円。往復で六百四十円。
まったくもって痛い出費だ。
これなら由美にハーゲンダッツでもおごっている方が安くつくじゃないか。
──おごらないけど。

学校へ近づくに連れて、キーンと小気味の良い金属音が聞こえてきた。
さしあたり、野球部の奴らが練習をやっているといったところだろう。
校門を潜り抜けて、グランドの方を見てみる。
予想通り、暑苦しいユニフォームを着た連中が白球を追いかけて走り回っていた。
彼らの邪魔にならないようにグランドの脇を通りながら、すぐ右手にある校舎の中へ入っていく。
っと、昇降口のところに、香苗が立っているのが見えた。
おそらく、彼氏である太一を待っているのであろう。
──ということは、彼女と一緒にここにいれば、いずれ太一が来るということだろうか。
そう考えた信也は、香苗に声を掛けてみることにした。
「松本さん」
香苗は信也の方を振り返ると、驚いたような表情を見せた。
「村上君、今学校来たの?」
「まぁね」
ちょっと苦笑い。確かに、よくよく考えたら驚かれるのも無理はない。
「もう、先生の話終わっちゃったよ?」
「あぁ、別にそんなの良いよ、どうせ大した話じゃないだろうし」
「でも、今日修学旅行のしおり配ってたよ」
「……修学旅行?」
何だ、それ。そんな物が配られるなんて話は聞いてない。
大方、担任団の野郎が、
“登校日に来ないような輩は修学旅行に来なくても良いんじゃない? ガハハハ”
なんて考えて事前報告なしで配ったに違いない。冗談じゃねぇ。
「進路の話が終わった後、長々と先生が話してたよ」
「マジ?」
「うん、マジ」
「それ、事前に連絡あった?」
「いや、なかった、ような」
「やっぱり……」
学年主任のあのハゲめ、後で覚えてろよ。
「え?何か言った?」
「あ、いや、何でもないよ」
どうやら考えていたことが口に出ていたらしい。危ない、危ない。
「そういえば、村上君、こんな時間に何しに来たの?」
「え、あぁ、太一にCD貸しに来たんだよ」
「わざわざそれだけのために?」
「まぁね、あいつと学校から電車の方向逆だし、夏休み中にCD貸せるような機会が今日くらいしか無いからね」
「ふうん、そっか。多分、そろそろ来ると思うけど」
「ってか、あいつは可愛い彼女を待たせて何やってんだか」
「そうだね……って、さり気に私褒められてる?」
「気のせい」
「あ、何それ」
ちょっと不機嫌そうな表情の香苗に、信也は苦笑いを返す。
それにしても、太一の奴、遅すぎる。
まぁ、きっと担任の話が長いんだろうけれど。
うちにクラスの担任の藤田は、いつも話が長い。
それと対照的に、香苗のクラスの担任である橋本っていう女の先生は学年で一番話が短い。
数学の教師なのだが、チャイムが鳴ると同時に授業を終えてくれるためにみんなに人気がある。
まぁ、要するに、うちの高校の奴らは現金な奴なのだ。
「村上君って、彼女いないの?」
突然そんな話を振られて、信也は少し驚いた。
まぁ、正直に答えておいた方が良さそうだ。
「……いないよ」
「ふうん、好きな人は?」
──まぁ、今度はそう尋ねられるだろうことは予想していたけれど。
とりあえず、考えてみることにした。
「……よく分かんねぇ」
「あ、なんか隠してない?」
「別に、隠してねぇよ」
「分からないとか、そんな訳ないでしょーが」
──いや、マジで分かんねぇんだって。
でも、この雰囲気じゃ、どう弁解しても埒が明かなさそうだった。
困ったな、どうしよう。
「おい」
不意に、背後から声が聞こえてきた。
二人同時に振り返ると、そこには太一が鬼のような形相をして立っていた。
どうも怒っているらしい。まぁ、大方予想はつくけれど。
きっと、香苗と仲良さそうにしてたのが気に食わないとみた。
こいつは、本当に単純な馬鹿だからな。
「お前人の彼女と何イチャついて……痛ぇ」
ビンゴ。
とりあえず、デコピンをお見舞いしてやった。
そんなやり取りを見て、香苗はクスクスと笑っていた。
「馬鹿、んな訳ねぇだろ、ほい、CD持って来たぞ」
鞄からケースを取り出して、太一に渡してやる。
太一はちょっと不機嫌そうにそれを自分の鞄にしまうと、 睨み付けるようにして信也の方を見た。
「なんでお前が松本と一緒にいんだよ」
「ここで待ってたら、間違いなく大森君が来ると思ってたのよ、そうだよね、村上君」
「イエス」
「……そっか」
香苗のナイスフォローでようやく納得したらしい。
それにしても、本当に馬鹿だ、こいつ。いちいち疲れる。
でも、まぁ、おかげで香苗の質問から逃れられたらしいけれど。
それだけは感謝しといてやるよ。喜べ。
「あれっ、村上君?」

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