オリオニア(7)


一瞬、ドキッとした。
女の子?
付き合っている訳でも無いのに、なんだか浮気された気分だ。
どうでも良いはずなのに、何故だかちょっと気になった。
「女の子と? へぇー」
少し、自分の声がうわずったような気がした。
まるで、変に意識しているみたいじゃない。バカバカしい。
「なーんてね。って言っても小学校四年の時の遠足の話だけどね」
笑いながら、信也が言った。
それを聞いて、あ、なんだ、と安心してしまった自分が妙に情けない。
なんだか、無性に恥ずかしくなってくる。
それもこれも、朝、弟が変なことを吹き込んだからに違いない。
大丈夫、いつも通りにしていれば、そのうち落ち着くはず。
そう信じて、由美も信也に微笑みを返した。
今風な造りの門を潜って、エントランスに入る。
カウンターの前のお姉さんが信也の入場券を確認すると、
彼女は、ごゆっくりどうぞ、と小さく笑ってからお辞儀した。
道順の表示に従って、カウンターを離れ奥の自動ドアを抜ける。
扉が開いた向こう側には、一面水槽に囲まれた薄暗い道が続いていた。
「昔とはちょっと雰囲気変わってる気がするなぁ」
「そうなの?」
「多分、だけどね」
不意に、右側の水槽の端を、大きなエイが迫ってきた。
ちょっと驚いて、目でその動きを追いかける。
が、その前をカラフルでド派手な魚が通り過ぎて、それに目を奪われてしまった。
名前なんて分からないけれど、凄く綺麗な魚。
その奥を、スイミー、とまではいかないが、あれを彷彿とさせるほどの群れを作って泳いでいる小魚。
いろいろな魚がいて、それが由美の心をワクワクとさせた。
ただ、生き物が水の中を泳いでいる。たったそれだけのことなのに、非常に面白く思えた。
チラッと信也の方を見る。彼の方も同様なのか、食い入るようにガラスの向こうを見つめていた。
左右も天井も水槽な道をしばらく進んでいくと、少し明るい小部屋に出る。
小さな水槽がいくつか飾られていて、カニやら貝やらがその中で訪問客を待ちわびていた。
その一番奥の水槽には、タツノオトシゴが泳いでいた。
思っていたよりも、随分小さい生き物だった。
「村上君、見てみて、タツノオトシゴだって」
「本当だ」
ピョコ、ピョコっと、タツノオトシゴが小さく動いた。
こんなに小さくても、ちゃんと生きているんだ、ということに由美は純粋に感動を覚えた。
「すごーい!動いてるー!」
「お前なぁ、子供みたいにはしゃぎすぎ」
「別に高校生だし、まだまだ子供だもんねーだ」
「あ、開き直りやがったな、こいつ」
信也が笑ったので、それにつられて由美も声を上げて笑う。
しかし、隣のカニの水槽を眺めていたおばさんが二人の方を睨んだので、由美は慌てて口を押さえた。
って、別に図書館とかにいる訳じゃないんだから、静かにしなきゃいけないなんてことは無いだろうに。
なんて、おばさんに突っ込んでやりたいような気がした。
「あのおばさん、タツノオトシゴに似てない?」
ふと耳元で、信也がそう囁いた。
いかにも彼女の口周りなどがそんな形をしていたので、
思わず噴き出してしまいそうになるのを、由美は必死で堪えた。
「な、似てるだろ?」
「似てる、絶対似てる」
おばさんが自分の方を睨んでいると分かっているのに、どうしても笑いが止まらない。
だって、本当に似てるんだもん、と自分に理由をつけて、結局耐え切れずに声を上げて笑った。
「ちょっと笑いすぎだろ」
言いながら、信也自身もケラケラと笑っている。
大したことでもないのに、おかしくておかしくて仕方が無かった。
ちょっと気になって、おばさんの方をチラッと盗みみる。
壊れたように笑い始めた二人に呆れたのか、そそくさと次の部屋へ向かおうとしていた。
なんだか、悪い事をしたような気がするが、実際何も悪い事はしていない。
──いや、おばさんの顔を見て笑ったことは、充分に悪いことか。
ちょっと反省。
でも、水槽の中のタツノオトシゴと目が合って、また思い出したように笑いが込み上げてくる。
しばらくは、このことを思い出すたびに笑い声を上げるはめになりそうだ。

いろいろな水槽を一通り見て回ると、二人は建物を出て水族館を後にした。
水族館の敷地内の方で、ワシャワシャとクマゼミが鳴いている。
それが余計に夏の暑さを促進させていた。
駅はすぐ側にあるのだが、その横にあったファーストフード店の看板がなんとなく目に飛び込んできた。
こんな暑い日は、冷たいジュースでも飲んだりしたいものだ。
「なんか冷たい物でも飲みたい?」
その看板に気をとられていることに気付いたのか、信也がそう言ったので、由美はドキッとして振り返った。
私って、もしかして分かりやすいのかな。
なんて思って、由美は自分が少し恥ずかしくなった。
「あ、うん、ちょっとね……」
「じゃぁ、ロッテリア行く?」
「村上君のおごりなら」
意地悪く笑ってみせてながら、由美が言った。
それに信也は少し眉をしかめながら答える。もちろん、口元は少し笑っているけれど。
「はぁ? アイスなら前おごったぞ」
「シェーキはおごってもらったことないもん」
「我侭な奴だなぁ、しゃあねぇ、おごるよ」
「え、本当に?」
半分冗談のつもりだったが意外とすんなりOKが出たので、ちょっと拍子抜けしたような気がした。
よく考えたら、アイスをおごってもらったお礼に水族館の無料入場券を上げたのに、
これじゃぁなんだか意味が無いじゃない。
「まぁ、アイスのお礼って意味で水族館のタダ券もらったけどさ、
 アイスの値段と入場料とじゃ釣り合わねぇだろ」
「そうだけど……私も水族館来てるのに……」
「そんなの、元々そっちの親がもらってきた入場券だろ?
 ってか、おごれって言った本人がなに一番驚いてんだよ」
そんなことを言いながら、信也は笑ってみせた。
確かに、言われてみればそうだけどさ。
「だって、本当におごってくれるとか、思わなかったし」
「んー、まぁ、どうでも良いや、とにかく入ろうぜ、暑い」
「あ、うん」
先を歩き出した信也を由美は慌てて追いかけた。

店内に入ると、涼しい空気が頬に触れた。
カウンターの前には数人の客が並んでいたものの、冷房の効き具合がなんとも心地よくて、生き返った気分になる。
外も、これだけ涼しければ良いのに。
「外もこんぐらい涼しくなんねぇかなぁ」
シャツの裾をパタパタと動かしながら、信也が言った。
由美は、それに思わず噴き出して笑う。
全く同じことを考えていたのが、なんだか愉快だった。
もしかすると、冷たい物を飲みたいかどうかを由美に尋ねたのも、
考えを見透かされたのではなくて、同じことを考えていただけなのかもしれない。
「何笑ってんだよ」
「いや、別に、何でもないよ」
「何だよ、感じ悪いなぁ」
「んー、さっきのタツノオトシゴのおばさん思い出しただけ」
あまり機嫌を損ねないように、適当に嘘を付く。
せっかくおごりのシェーキを逃さないようにしないと。
「まだそれで笑ってんのか?」
「だって似てたもん」
「ふうん」
その返答に納得したのか、苦笑いを浮かべたまま、信也はカウンター上のメニューの表を見上げた。
由美も、信也の視線を辿るようにそれを見上げてみる。
「私は普通のバニラシェーキね」
ソフトドリンクの横の欄に並んだ文字の羅列を見ながら、由美が言った。
「他は良いの?」
「え、他もおごってくれるの?」
少し驚いたように、由美は信也の顔を覗き込んだ。
「朝から部活あったんだろ?腹減ってねぇの?」
「一応、お弁当は食べたよ?」
「足りた?」
「え、ううん、微妙……、かも」
自分のお腹のすき具合をちょっと考えながら、答えた。
「じゃぁ、何でも良いし頼めよ」
「……何か企んでる?」
「企んでねぇよ、人が親切に言ってやってんだろ」
「親切過ぎて気持ち悪い」
「んなこと言うんだったら、シェーキもおごらねぇぞ」
「あ、えっと、ごめん、はい、おごられさせていただきます」
「なんか、日本語変だぞ」
小さく笑いながら、信也が言った。
「う、うるさいなー、もう」
でも、言われてみると、確かに変かもしれない。
おごられて?おごらされて?
──何だか、訳が分からなくなってきた。
「お客様、こちらへどうぞ」
店員のお姉さんが、二人の方を向いて営業スマイル。
それに気付いて、信也と由美は一番右のカウンターの前へ移動した。

注文を済ませて、ハンバーガーが揃うまでの間、
由美は信也の指示で空いている席を探して二階に上がった。
街の外は閑散としていたのに、店内は意外と人が多い。
暑さのせいで、水族館帰りの客は誰も彼もここに寄り道しているのだろうか。
駅は、水族館から目と鼻の先なのに、みんな一体何を考えているんだか。
──って、自分たちもそのうちの一人なんだけれど。
なんとか四人分の空席を見つけて、テーブルの椅子に座る。
持っていた重たいバッグを隣の席に下ろして、由美は溜め息をついた。
体操服やらバレーシューズやらを小さい鞄に無理やり詰め込んでいるので、結構重いのだ。
行きしと比べれば、水筒の中身が空になった分だけ軽いけれど。
「お待たせ」
しばらくして、ハンバーガーの乗ったトレーが由美の座っていたテーブルの上に置かれた。
ハッと我に返った由美は、声の聞こえてきた方を見上げた。
さっきまでは気付かなかったが、信也の首筋を一筋の汗が伝っていた。
それを見て、由美も自分の首筋を触ってみる。
汗の、生ぬるい感触が指に伝わってきて、気持ち悪かった。
水族館を出てから店に入るまでそれほど長く外に出ていた訳ではなかったが、
やはり外の暑さは尋常ではなかったらしい。
「さて、食べますか」
「あ、ごめん。ちょっと手、洗ってくるね」
「あぁ、うん」

汗で濡れた手を洗って由美が洗面所から戻ってくると、信也はまだ何も口にしないで由美を待っていた。
「あれ、まだ食べてなかったの?」
「いや、なんか、先に食べてたらあれかな、とか思って」
「別にそんなの良いのに」
手を拭いたハンカチをバッグのポケットにしまってから、テーブルの椅子を引き出して座る。
それを待ってから、信也はようやくジンジャーエールの入った紙コップに手を伸ばした。
由美も、その手前にあったバニラシェーキの紙コップとストローを掴む。
「何にせよ、今日はありがとな」
「何が?」
「いや、水族館の入場券」
「別に、家にあっても、誰も行かないし気にしないで良いよ」
「……そんなもんか」
「……そんなもんよ」
少し二人で笑いあってから、バニラシェーキをすする。
冷たくて甘い味が口の中に広がって、なんだかリフレッシュされた気分だ。
「まぁ、でも、今度入場券くれる時はさ、水族館じゃなくてさ……」
「あ、分かった、あそこでしょ?」
手に持っていた紙コップをテーブルの上に置いてから、由美は信也を遮るように言った。
「プラネタリウムでしょ?」
「……よく分かったな」
驚いたような表情で言う信也のその答えに、耐え切れず笑い声をあげた。
「なんで笑うんだよ」
「本当に天体好きなんだね」
「悪いかよ」
「ごめんね、今日は空じゃなくて海で」
「うるせぇ」
なかなか笑いが治まらなくて、クスクスと笑い続けていると、
信也は少し機嫌を悪くしたのか、ムッとした表情のままハンバーガーの包みを開けた。
「何がそんなにおかしいんだよ」
尋ねられるが、笑いが治まらなくて答えられない。
そんな由美の様子に呆れたのか、いつのまにか信也も小さく笑っていた。
そういえば、前にも思ったことがある。
どうして、こんなにおかしいんだろうか、って。
正直、自分でもよくは分かていなかったけれど、今、やっと気付いた気がする。
いや、本当は、ずっと前から気付いていた。
ただ、気付かないフリをしていただけだと思う。
それは、一週間ほど前のあの日に、大野山の丘で信也と出会うよりもずっと前から。
高校一年で、同じクラスになったときから、ずっと思っていたこと。
それは単純なことで、だけど難しいこと。
そうなんだ。
私は、信也のことが好きなんだ。

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