オリオニア(6)
「じゃぁ、昼のニ時に吾野水族館の駅の改札口で」
昨日届いたそのメールの送り主は、終業式の日の夜に登録したばかりのアドレスだった。
由美は、小さく溜め息をつきながら、パタリと携帯の画面を閉じる。
それはもう一週間前のこと。
信也から、水族館に一緒に行かないかと誘われた。
誘われたと言っても、もとはと言えば
由美が信也にあげた無料入場券がきっかけなのだけれど。
そして、その時の勢いで、由美は思わずOKの返事をした。
その都合でメールアドレスを交換して、
昨日待ち合わせの時間についてやり取りしていたという訳だ。
今考え直してみると、男の子と二人きりで出かけるなんて生まれて初めてのことだ。
中学の時は、一年の時から塾に入れられて、
彼氏どころか女友達とも遊びに行く暇はあまりなかった。
高校に入ってからも、遊びに関して消極的なのは
おそらくそのせいじゃないだろうか。
──というのは、もっぱらの言い訳なんだけどね。
小さく呟きながら、ふぅ、とまた溜め息をついた。
立ち上がると、座っていた椅子がギィと軋む。
机の上に置いていた携帯電話を手に取り、ポケットに入れた。
椅子を机の下に押し込み、ふとベッドの横にある
目覚まし時計に目を向ける。
カチ、カチと音を刻みながら、時計の針は七時五十五分を指していた。
そろそろ、部活に出かけないと。
部活が始まるのは九時からだ。
駅まで歩いて十分、電車で十五分、そしてまた歩いて十分。
時間的には充分に余裕がある。
しかし、何せ田舎のため、電車を一本逃すと
次の電車までかなりの時間を待たなければならなくなる。
そうなると、部活の時間には間に合わない。
とにかく、もう今のうちに家を出ておくのが得策なのだ。
机の横のバッグを掴むと、そのまま部屋を出る。
廊下を歩くたびに、ジャージがシュッシュッと擦れて音がした。
階段を下りて、すぐ左手の居間に入る。
母親が暢気にお茶をすすりながら、テレビを眺めていた。
「あら、もう行くの?」
「うん。あれ、……光弘は?」
テーブル下の椅子を引っ張り出して、そこに荷物を置きながら尋ねた。
光弘は、由美の弟の名前だ。
「光弘なら、さっき携帯が鳴って何処か行ったわよ」
「ふうん、珍しく早起きだと思ったら、何してるんだか。
あ、お母さん、お茶のペットボトルどこ?」
「冷蔵庫の冷凍室」
「はいは〜い」
答えながら、テーブル横の冷蔵庫の扉を開ける。
ひんやりとした気持ち良い冷気の向こう側に、
凍ったお茶の入ったペットボトルが二本見えた。
纏めてそれを左手に持ち、右手で冷蔵庫の扉を閉める。
「冷たっ」
慌ててテーブルの上にお茶を置いて、
流し台の横のベットボトルのケースを取って、その中に入れた。
バッグの中にお茶を押し込んでから、思い出したように居間を出る。
トイレに行こうと廊下の突き当たりの扉の前まで辿り着くと、そのドアノブを捻ろうとする。
開かない。誰かが入っているらしい。
ドアノブのすぐ上の溝のところが赤い表示に変わっていた。
仕方が無いので、待ってみる。
しかし、なかなか出てくる気配がない。
誰が入っているんだろう、弟かな、なんて考えたのも束の間。
中から、話し声が聞こえてきた。
耳を済ませて聞いてみると、やはりそれは光弘の声だった。
──ん?話し声?
由美は慌てて扉をノックした。
「光弘?あんた、中で電話してるでしょ?」
やべっ、ちょ、ごめん、一旦切るよ、という声が中から聞こえてきて、
ようやくドアが開いた。
「ごめん、ごめん、待ちました?」
苦笑いを浮かべながら、中から光弘が出てきた。
光弘の笑い方が気に入らなかったので、由美は少しムッとした。
「ってか、あんた手洗ったの?」
「いや、俺別に用足してないし」
扉を閉めながら、光弘が言った。
「はぁ? 何でトイレの中で電話なんかしてるのよ」
「あ、バレちゃあ、仕方無いねぇ」
また、さっきの嫌らしい笑顔を浮かべる。
──いい加減、イライラしてきた。
「俺は姉ちゃんと違ってモテますから」
「モテるって、え……あんた、まさか彼女居るの?」
「あれ、姉ちゃんもしかして慌ててんの?」
「あ、あんたねぇ……」
非常にイライラする。一発殴ってやりたいくらいだ。
「どうせ携帯にも女友達のアドレスしか入ってないんじゃ……痛っ」
殴ってやった。
「図星だからって殴っ……痛いって、ごめ、ちょっ」
三発ぐらい殴った。腹が立つ。
街行く人々にどうぞご自由に殴ってくださいと叫びたくなるような弟だ。
「男友達のアドレスくらい入ってるわよ」
一週間前まで全くの0だったけどね。
っと、心の中で付け足した。
──なんだか、自分が情けなくなってきた。
「あぁ、でも、1件だけだろ?」
ニヤニヤと笑いながら、光弘が言った。
ム、ムカつく。
図星なだけにムカつく。
「関係無いでしょ、ってか、早くあんたそこどいて」
「あ、誤魔化した、ひでぇ」
「うるさいわね、遅刻するでしょ?」
「で、その男友達と、どうなの?
その人のアドレスしか携帯に入れてないってことは、
もしかしてその人のこと好きなんじゃねーのー?」
「ば、馬鹿言わないの」
「あはは、姉ちゃんからかってると楽しい」
「うるさい、ってかウザい、いい加減にそこをどけっ」
もう一発、ぶん殴ってみた。
「痛っ、可愛い弟を殴るなよ」
「可愛くないからどいて」
「ひっでー、そこまで言う?
まぁ、今日その人と初デートなんだろ、せいぜい頑張って」
光弘のその言葉に、少しドキッとする。
デートかどうかはともかく、外れでは無かったからだ。
「え、まさか当たり?」
「ち、違うわよ」
また、弟がニターッ、と出来の悪い笑顔を浮かべた。
こんな男に彼女が居るなんて、信じられない。
何処で騙されているんだか。
「ってか、姉ちゃん、まさかそのアンダーシャツとジャージ来て行くの?
初めてのデートなのに?」
「うるさい、着替えの服なら鞄の中に入ってるわよ」
言ってから、自分の失言に気付く。
光弘も、一瞬唖然とした表情で由美の方を見ていた。
しまった。
マズいことを言った。
「着替えって、姉ちゃんいつも部活から帰ってくる時も
ジャージだし、え、マジでデート……痛い、痛いって」
「さっさとどいて、マジで急いでるの」
「ご、ごめんなさーい」
由美から殺気を感じたのか、ようやくトイレのドアの前から
光弘は去っていった。苦笑いを浮かべながら。
疲れる。
本当に疲れる弟だ。
吾野水族館前駅。
夏休みとはいえ平日ということもあってか、乗降者数はあまり多くない。
改札口が近づいてくるにつれ、少しドキドキしてきた。
──弟が余計なことを言うからだ。
妙に緊張してきてしまったじゃない。ほんと、嫌になってきた。
吹き出る汗をハンカチで拭いながら、改札を抜ける。
いつも定期券を取る癖で、自動改札機から出てくる切符を一瞬取ろうとしてしまいそうになる。
学校から家とは逆方面の電車だから、切符を買って乗ったのだということを思い出して、ちょっと恥ずかしくなった。
汗ばんだ髪型を気にしながら、近くを歩き回る。
視界の先に信也の姿が映るまでには、それほど時間はかからなかった。
「ごめん、待った?」
「いや、今来たとこだよ」
お決まりの返答に、なんだか本当に今からデートするような気になる。余計に恥ずかしい。
「どうかした?」
怪訝な顔をして信也が尋ねてきた。
由美は、慌てて首を振って、何でもないよと答えた。
「ふうん、なら、良いけど。ってか、ごめん」
「何が?」
「いや、だって、部活で疲れてるんじゃないの?」
「別に、平気だってば」
苦笑いを浮かべて、由美はそう答えた。
「とにかく、行こ、せっかく来たんだし」
「分かった、行こっか」
由美に促がされて、信也がゆっくりと歩みを進める。
駅の建物を出ると、すぐ眼前に“吾野水族館”の表示が見えた。
まさしく、駅名の通り吾野水族館のまん前だ。
「実は私、ここの水族館来るの、初めてなんだよね」
「そうなの? 俺は……二回目、かな」
少し考えるような仕草を見せてから、信也が言った。
鞄から入場券を取り出そうとしているらしい信也の手元を見ながら、由美が尋ねた。
「初めての時は誰と来たの? 家族?」
「いや、女の子と」
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