オリオニア(5)


日が暮れてから、いつものように信也は家を出た。
これぐらいの時間帯になれば、夏とはいえそれなりに涼しい。
ゆっくりといつもの坂道を上りながら、虫の鳴く声に耳にすませてみる。
ジーッと、アブラ蝉のような低い音が何処からか聞こえてきた。
そして、道が平坦になったところで、左折。
緩やかな下り坂を進んだ先で、いつもの絶景と巡り合う。
しかし、その日信也が出会ったのは絶景だけではなかった。
いつものその場所に、先客が居たのだ。
暗くて、顔は良く見えない。
だが、信也にはそれが誰なのかがすぐに分かった。
昨日見かけたばかりの柴犬を、その人物が連れていたからだ。
「倉橋……さん?」
恐るおそる、声を掛けてみる。
少女が、ゆっくりと信也の方を振り返った。
「あ、村上君、やっぱり今日も来た」
「何してるの?こんなところで……」
「何って……弟まだ帰ってないから、今日も代わりに私が犬の散歩。
 それで、今はさそり座を眺めてたの」
言いながら、由美はガードレールの向こうで瞬く赤い星を指差した。
「さそり座好きなの?変わってるなぁ」
苦笑いを浮かべながら、信也が言った。
由美はそれに答えず、一心不乱に夜空を眺めていた。
それにつられて、さそり座の一等星、アンタレスに視線を移してみる。
赤い光が、読んで字の如く燃えるように輝いていた。
「好きって言うか……私、さそり座だからさ」
ようやくそう答えた由美は、少し恥ずかしそうにしながら小さく笑った。
さそり座の女、か。まるで誰かの歌みたいだ。
「11月生まれなの?」
「ううん、10月28日。あと少し早かったら、天秤座だったのになぁ」
「別に、良いじゃん、さそり座でも」
由美が、夜空から信也に視線を映しながら続けた。
「嫌だよ、なんか、嫉妬深かったり、しつこかったりしそうじゃない?」
「まぁ、まさにそんな感じだったけどな、昼間の電車の中とか」
「あ、ひどーい」
不貞腐れながら、信也を睨む由美。
それに出来るだけ目を合わせないようにしながら、
とりあえず信也は笑って誤魔化す事にした。
また、機嫌を損ねたりして、昼間みたいに
ハーゲンダッツをおごらされたら、たまったモンじゃない。
「でも、干支がへびで、星座がさそりじゃないだけマシだろ?」
「うわぁ、その組み合わせ、最悪」
二人して声を上げて笑っていると、ワンと犬が吠えて会話が途切れる。
由美が犬の頭を優しく撫でてやりながら、思い出したように言った。
「そうだ、村上君に用があったんだよね」
「用?」
「そう、だからここで待ってたら来るかと思って……
 星を眺めてる間に忘れるところだった」
言いながら、由美はスカートのポケットの中を探り始めた。
あれ、どこしまったっけ、なんて呟きながら、
しばらくして、あった、っと言いながら何かを取り出して信也に見せた。
何か、小さな紙切れだった。
「これ、昼間のお礼」
「お礼?」
「ハーゲンダッツの」
自分でおごらせといて、お礼をくれるのか。
最近の若い子は、礼儀正しいのか正しくないのか、よく分からない。
まぁ、自分も若い子だけれど。
そんなことを考えながら、由美の手に握られた紙切れを掴み取る。
見ると、“吾野水族館 無料入場券”と書いてあった。
しかも、二枚ある。
「何、これ?」
「家にあったの、勝手に持ってきた」
「勝手にって、良いの?」
「多分」
「多分って、いい加減だなぁ。とりあえず、ありがとう」
入場券を裏向けながら、信也が答えた。
表も裏も同じ印刷が施されている。
何だかよく分からないが、
とりあえずこれがあれば水族館に無料で入れるということだろう。
「お父さんね、広告代理店って言うの?とりあえずそんな仕事やってるんだけど、
 その都合で吾野水族館のポスター作ったらしくて、その時にもらったんだって」
「ポスターって……もしかして、鳥が浜駅とかに貼ってある、あれ?」
信也は、学校帰りに駅でみた、水着の女の人とイルカのポスターを思い出しながら言う。
まさか、あのポスターを身近な人物の父親が作っていたなんて、驚きだ。
──あまり良い趣味のポスターではなかった気がするけれど。
とはいえ、信也の記憶に残っているくらいだから、
ポスターとしての効果は十分に発揮していると言えるのかもしれない。
「多分、そうだと思うけど……私も、よく知らない」
「ふうん。とりあえず、ありがたくもらっとくけど……二枚もくれるの?」
「だって、一人で行っても寂しいでしょ?親とか友達とかと一緒に行ってきてよ」
「親と行っても……」
「じゃぁ、友達と」
「ううん……太一は、部活とデートで忙しいだろうしなぁ」
呟いて、チラッと由美の方を見る。
由美は、再び柴犬の頭を撫でながら何やら小声で犬に話しかけていた。
耳を済ませてみると、よしよし、だとか呟いている。
どうやら、この犬、マー君のことを結構可愛がってはいるらしい。
まぁ、そうじゃなきゃ散歩なんて連れて来ないか。
弟が飼っている犬とはいえ。
「まぁ、別に、一人で二回行くってのもありだと思うけど」
由美が、信也に視線を戻して言った。
「一人で行くのはいくらなんでも寂しいだろ、しかも二回も。
 あ、そうだ、倉橋さん、一緒に行く?」
「えっ、私?」
自分を指差しながら、驚いたような表情を浮かべる由美。
──もしかして、自分はまたまずいことを言ってしまったのでは無いだろうか。
いや、そうに違いない。
女の子と二人きりの水族館。
いくらなんでも、これはまずいだろ。
おいおい、ちょっと露骨過ぎやしないか、なんて太一の奴が喜んでからかってきそうだ。
そんなんじゃねぇよ馬鹿、っと想像の中の太一に突っ込みを入れる。
やばい、ドキドキしてきた。
「私は別に、良いけどさ……もしかして、大森君以外に友達居ないの?」
「別にそんなんじゃねぇけど……」
「あはは、まぁ、良いよ、友達の居ない可哀想な村上君のために、一緒に行ってあげますか」
って、お前はお前で了承するなよ、っと思わず突っ込みそうになった。
ダメだ、由美のペースに飲まれて、さっきから突っ込んでばっかりだ。
──もしかしたら、俺、関西人になれるんじゃないだろうか。
なんて馬鹿なことを少し考えたりしながら、そんな自分に少しうんざりする。
ダメだ、思考回路が完全におかしい。
大分テンパってしまっているようだ。
とりあえず、落ち着こう。
スーハー、スーハー。
よし、落ち着いた。
多分。
女の子と二人きりの水族館
たまには、そういうのも良いに違いない。
──本当に良いのだろうか。
まぁ、良いか。
良いということにしとこう。
「じゃぁ、よろしく頼むよ」
「あ、あれ?友達くらい居るよ、っとか言われるかと思ったのに」
うるさい、こっちはいろいろテンパってて、それどころじゃねぇんだよ、馬鹿。
──情けない話だけれど。
「って、本当に、私で良いの?」
「いや、この際、もう誰でも良いよ」
「誰でも良いって、それはそれでなんかショックなんですけど」
「ごめんごめん、とりあえず、そういう訳で、よろしく」
「分かった。いつ、行くの?」
「ううん、そっちの部活の都合に合わせるけど……」
「じゃぁ……来週、でも良い?今週は、部活全部午後からだから……」
「全然問題無いよ、こっちは、夏休み中暇だしね」
「そっか、友達居ないもんね」
「居るっつうの」
「あ、やっと突っ込まれた」
二人して声を上げて笑うと、また柴犬がワンと吠える。
思い出したように、そろそろ行くねと由美が囁いたので、
信也はこの日も由美を送ることにした。
いろいろと会話を交しながら、坂を下っていく。
由美は、信也の話を笑いながら楽しそうに聞いていた。
何が面白いのか分からないくらいに、よく笑った。
でも、それは見ていて何だか元気をもらえるような、そんな笑顔だ。
つまらない事で、笑って、笑ってはつまらない会話を続ける。
そして、ふと会話が途切れる度に、二人は揃って空を見上げた。
その視線の先の夜空で、夏の星たちは立派に光を放ち輝いていた。

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