オリオニア(3)
「やっと、終わったなぁ。マジ、暑すぎる」
蒸し風呂のような熱気と汗臭さから開放され、ようやく体育館の外へ出る。
ふわっと、信也の頬を吹き付けた風が、なんとも心地良い。
「地球温暖化誰か食い止めて来いって」
「無理に決まってんだろ、馬鹿。ウルトラマンにでも頼んで来い」
制服の一番上のボタンを外し、右手でハタハタと襟元を動かしながら、信也は答えた。
「ウルトラマンにでも無理だろ」
「真面目に答えんな、馬鹿」
「お前はバカバカ言い過ぎだっつうの」
「暑い、太一、喋るな」
「はぁ、ムカつく野郎だなぁ」
太一と呼ばれた男は、ムスッとしながらそんな風に答える。
前を見れば、校舎へ入っていこうとする連中が長蛇の列を形成していた。
ただでさえ暑くてイライラしているのに、余計に苛立ちが募ってくる。
っと、そこへまた気持ちの良い風が吹いてきた。
信也は、まるで生き返ったかのように小さく息をついた。
「お前、このあと予定とかあんの?」
「……何も無ぇなぁ」
「じゃぁ、帰りにゲーセンでも寄らねぇか?」
「明日から夏休みだってのに、ゲーセンかよ」
溜息をつきながら、信也が呟いた。
ふと、渡り廊下の天井を見上げてみる。
今年の春に作られたばかりのツバメの巣が、もはやボロボロに崩れているのが目についた。
「嫌なら良いけど」
「いや、行くよ、ってか、お前こそ良いのか?」
「何が?」
「あいつ」
「あいつって?」
「決まってるだろ、そんなの」
小さく嫌らしい笑みを浮かべ、小指を立てながら信也が言った。
「バ、バカっ」
サッカーで鍛え上げられた、でかい図体をした男が、
顔を真っ赤にしながら慌てふためく様を見ると、なんだかとても面白かった。
──もっといじめてやろう。
「四月に付き合い始めたんだって?」
「あぁ、まぁ、な」
「何なら、俺が良いデートコース提案してやろうか?」
「な、な、なんだよ」
動揺しすぎだ、馬鹿。やっぱり、面白い奴だ。
「そうだなぁ、夏といえば、海とか良いんじゃねぇの?
あの子の水着姿とか、見れるし、夏休みの間に行ってこいよ」
「み、水着……」
「あれ、お前顔真っ赤だけど、何想像してんの?」
「う、うるせぇ、暑いんだ、そう、それに違いないです」
日本語変だぞ、馬鹿。やばい、これは面白い。はまった。
「あ、水着じゃご不満?何なら、家にでも呼んでみたら?」
「ど、どういう意味だ?」
「どういう意味って、家に呼んだら、押し倒すも何するも自由じゃありませんか」
「し、信也、てめ、ちょ、待て」
太一の顔は、ますます真っ赤になる。
信也は、必死になって笑いを堪えながら、
殴りかかろうとする太一から逃れようと、人ごみを掻き分けて校舎の中へ飛び込んだ。
それにしても、意外にも純情な奴なんだな、と少し驚いた。
まさか、水着ごときで興奮するとは。
まぁ、付き合い始めたばかりだし、太一にとって、生まれて初めての彼女らしいから、
当然と言えば当然なのかもしれないが。
各言う自分が偉そうに言えた身分ではないけれど。
彼女なんて、生まれてこの方出来たことがない。
──なんて考え事をしながら逃げているうちに、教室の前まで辿り着いた。
鍵が、まだ開いていないらしい。
防犯のためだとか何とかで、教室の扉には鍵がついているのだ。
「はぁ、くそ、逃げ足だけは速い奴だな」
やっと追いついて来た太一が、ハァハァと息を切らしながら言う。
「悪い悪い、ちょっとからかいすぎたよ」
「あ、大森君」
不意に、背後から声をかけられる。
振り返ると、すぐ側に松本香苗が立っていた。太一の彼女だ。
「よ、よぉ、松本」
声が裏返りそうになりながら、太一が答える。
思わず、信也が噴き出して笑うと、首根っこを無言で掴まれた。
痛ぇよ。
「今日、一緒に帰れる?」
「もちろん、ちょうど暇だったし」
「あれ、お前、ゲーセ……、痛ぇ」
また、掴まれた。これは絶対明日朝起きたら腫れてるな。
間違いない。思いっきり掴みやがって、くそ。
「良かったぁ、じゃぁ、帰りにね」
「お、おぉ、また後でな」
太一の返答に小さく手を振ると、サラサラと長い髪を揺らしながら、
少し離れた場所に居た数人の女子の元へと戻っていく。
綺麗な、黒い髪。確かに、可愛い女の子だ。
太一が好きになったのも、無理はない気がする。
「あぁ〜あ、お前から誘ったくせによ」
「は、何の話?」
「ゲーセンだよ、ゲーセン、もう忘れたのかよ、この馬鹿」
「馬鹿は余計だ、仕方無ぇだろ」
「まぁ、良いけど、別に」
ちょうどその時、ガラガラ、と、教室の前の入り口が開いた。
やっと担任の野郎が鍵を持って現れたらしい。
ったく、こんなくそ暑い廊下に、何分待たせる気だ。
なんて文句の一つでも言いたかったが、教室に入っても、この暑さが変わるわけではない。
「ったく、冷房くらい付けてくれよなぁ」
太一が、小さく愚痴をこぼす。
どうやら、信也と似たようなことを考えていたらしい。
これだけ暑ければ、当然か。
教室に入って、自分の席に着く。
机の中から、下敷きを取り出して、パタパタと仰ぐ。
そういえば、この下敷き。
うちわの代わりとして以外に使った記憶が、無い気がする。
──まぁ、良いか。
とにもかくにも、この夏の暑さとも今日でしばらくお別れだ。
明日からは、冷房の効いた自宅でのんびりと過ごすことが出来る。
やれやれ、と言った感じだ。
担任から話を聞いたり(いや、聞いてはいなかったけど)、
成績表が配られたりした後で、ようやく放課後を迎えた。
とりあえず、太一と話をしながら教室を後にする。
昇降口まで辿り着くと、そこには既に香苗の姿があって、
太一は二人でそそくさと帰って行った。
信也に、何も挨拶することなく。なんだか、非常に、むなしい。
せめて、声くらい掛けて帰れよ、あの馬鹿。
それにしても──なんだかちょっとだけ羨ましかった。
──本当に、ちょっとだけだけど。
靴を履き替え、気だるい暑さに耐えながら校舎を出ると、眩しい太陽の光が目に入ってくる。
時間は、ちょうど昼時。今が一番暑い時間帯だ。
出来るだけ、日陰を歩いて帰る。
それでも、アスファルトから照り返されてくる熱がジリジリと暑い。
とは言え、日向と比べれば遥かにマシだ。
そんな訳で日影を選んで、出来るだけ無駄な体力を使わないようにゆっくりと歩いた。
チリンチリンと、通りかかった家の窓に下がっていた風鈴が鳴る。
心地よい風が吹く。いつもこんな風が吹いていたら、夏だって気持ちが良いものだ。
学校から十分ほど歩いて、ようやく駅に着いた。
ようやく、というほどの距離でもないかもしれないが、この炎天下での十分はたまらなく苦痛だった。
同じ高校の制服を着た連中の誰もかれもが、
信也と同じように、暑さにうな垂れながら、ゾロゾロと改札を抜けていく。
それに続いて、信也も鞄から取り出した定期券を自動改札機に通した。
すぐにそれをしまってから、辺りをキョロキョロと見渡してみた。
コンクリートの壁に、緑色の掲示板が見える。
<イルカたちと楽しい夏を 吾野水族館>という大きな文字の踊った、
真っ青な海色のポスターが四枚ばかし掲示板一面に貼られていた。
イルカの背中に乗った水着姿の女の人が、信也の方を向いて笑っている。
いかにも涼しそうで羨ましいじゃないか。海、行きてぇなぁ。
この際、水族館でも構わない。とは言え、一人で行くのは、あまりにも寂しすぎる。
不意に、頭上で線路がガタガタと揺れる音がした。
その音でハッと我にかえると、すぐさまポスターから目を離し、慌てて売店横を通り過ぎていく。
篠山方面 と書かれた看板の表示に従って階段を上がりきると、
まだ電車は来ていないらしく、ホームは人でごった返していた。
あれ、おかしいな、と思ってふと前を向いてみると、電車は反対側のホームに滑り込んでいた。
なんだ、さっきの線路の音は、あっちかよ。っと、ちょっと騙された気がして、溜め息をつく。
暑さのせいもあって、少しイライラしてきた。
深く深呼吸して、気持ちを落ち着かせようと試みる。
スーハー、スーハー。
──よし、落ち着いた。
多分。いや、きっと。
「あ、村上君」
突然声をかけられて、驚いて声のした方を振り向いた。
制服を身に纏った由美が、そこに立っていた。
「く、倉橋さん。ビックリしたぁ」
「なんでビックリするの?」
くすくすと笑いながら、由美が言った。
「突然話しかけられたからさ」
「そんなに驚かなくても良いじゃん。それより、昨日はありがとう」
昨日?あぁ、家の近くまで送ってあげた件か。
「いや、別に、良いよ」
「そう、なら良かった」
そう言って、由美は笑顔を見せる。
なんだか、さっきまでのイライラが、嘘のようにスッと消える笑顔だった。
「ど、どうかした?」
信也がマジマジと由美の顔を見つめるものだから、由美は顔を少し赤くしながら尋ねてきた。
信也は、慌てて目を逸らすと、適当に苦笑いを浮かべてごまかした。
「いや、別に、何でもないけど、そういや、今日、部活は無かったの?」
「え?あ、うん、バスケ部が大会近いらしくて、体育館使ってるから」
「バレー部は、大会近くないの?」
「いや、新人戦が近いんだけど……うちのバレー部、弱いからねぇ」
言いながら、苦笑いを浮かべる。
信也たちの通う鳥ヶ浜高校のバスケ部は女子も男子も共に、
全国大会にまで名を連ねるほどの強豪らしかった。
とは言っても、全国では初戦で敗退してしまう程度の強さで、
単に地元で強いってだけで威張り過ぎなんだよ、っと、
万年初戦敗退のサッカー部を率いるキャプテンに先週就任したばかりの、
大森太一がそう愚痴をこぼしていたのを信也は覚えている。
まぁ、あいつのことだから、半分以上は嫉妬でしかないだろうけれど。
でも、太一の気持ちも分からなくも無い気がした。
あいつは、キャプテンなだけに、サッカーは相当上手い。
お世辞とかではなく、事実そう思う。
というより、高校に入学する以前だって、名門校からサッカーの推薦が来ていたくらいだ。
向こう側の勘違いでもない限り、下手な訳がないのだ。
まぁ、香苗の奴が鳥ヶ浜高校に入学すると知り、
その推薦を蹴るようなかなりの大馬鹿野郎だけれど。
しかし、結局のところ香苗と付き合えるようになったのだから、
太一としては後悔していないのかもしれない。
「まぁ、せめて一勝くらいして来いよ」
「え……、あ、うん、ありがとう」
少し嬉しそうに、由美は笑って答えた。
“まもなく、三番線に、急行 篠山行きが参ります”
不意に、アナウンスが流れてきた。
やっと、電車が来る。これでこの暑さともおさらばだ。
電車の中なら、きっと冷房が効いているはずだ。
「やっと来た、それにしても、暑い、ね」
手でパタパタと顔を仰ぎながら、由美が言った。
「日本政府は何よりもまず地球温暖化について話し合うべきだと思うんだ、マジで」
信也が真顔でそんなことを言うものだから、由美は思わず噴き出して笑う。
なんだか信也自身もおかしくなって、声を出して笑った。
ちょっと笑いが治まってきたくらいになって、ようやく急行電車がホームに滑り込んでくる。
二人はそれに乗り込むと、電車はゆっくりと唸りを上げて動き始めた。
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