オリオニア(2)


「よく考えたら、こんな暗い夜道、一人で大丈夫?」
「あ……あはは、そういえば」
由美も今更気付いたかのように、苦笑いを浮かべる。
ワン、ワンと、柴犬が喧しく吠えた。
「何だったら、……その、送って行くけど」
「えっ……」
少し驚いたような表情を浮かべて、由美は俯いた。
そんな由美の反応を見て、ようやく、自分の口にした言葉が孕んでいる意味を悟った。
夜道を、女の子と二人きり。非常にまずいじゃないか。
そんなことを考えているのも束の間、由美はすぐに顔を上げて、笑顔で答えた。
「じゃぁ、お願いしようかな」

真っ暗な道。
ただ、犬の呼吸の音が聞こえてくるだけの、静かな道。
──強いて言うならば、蝉の鳴き声が、何処からか聞こえている。
さっきからひたすら鳴いているものだから、
無意識のうちに音として耳から除外されているような感じだった。
そして、信也はチラッと由美の方を見た。
何処か視線を逸らしながら、歩いている由美の姿が目に飛び込んだ。
何の深い意味もなく声を掛けたつもりの信也だったが、
さっきの由美の反応を見たせいで、変に意識してしまう。
まずった。
あれは、まずった。
ただ、沈黙のまま、緩やかな坂を上っていく。
「あ、こっち……」
道が交わるところで不意に口を開いた由美が、指さした方向。
信也が、さっき上がってきた坂だった。
「え、あぁ」
頷いて、今度はゆっくりと坂を下りていく。カッ、っと石の転がる音。
信也の足に、落ちていた小石が当たったようだが、暗くてよく見えない。
「毎日、星、見てるの?」
沈黙に耐えかねてか、由美が口を開いた。
「あぁ……まぁ、ね」
「そうなんだ……意外」
「さっきも、それ……意外って言われたな」
「あ、うん……ごめん」
しまった、また余計なことを言ったな。っと、後悔をしても遅い。
おかげで、また会話が途切れてしまった。
「まぁ、でも、意外、かもしれないな」
無理やり会話を繋げようと、そんなことを口走る。
「そう、そうだよ、意外だよ」
──どうやら、由美の方も、無理やり会話を続けたいという気持ちは同じらしい。
いくらなんでも、無理のある繋ぎ方だ。
なんだか、それが少しおかしくて、肩の力が抜けたような気がした。
「でも、倉橋さんも、アンタレス知ってるとは思わなかったよ」
「えぇ〜、なんで?」
ちょっと不満そうに、由美が頬を膨らませながら言った。
「だって、運動部だし。なんか、そういう文化系っぽいことに興味無い気がしてた」
「ふうん」
信也の意見に、納得したように、由美は頷いた。
そんなの偏見だよ、だとか、不貞腐れて言われるかと思っていたので、少し意外だった。
「バレーボール部、だったよね?」
「そうだよ」
由美が、ようやく信也の方を向いて答えた。
ちょっと恥ずかしくなって、今度は信也の方から視線を逸らした。
「ポジションとかってあるの?」
「うん、私はレフト」
「レフトって……サードの後ろの?」
「……それは野球」
「……冗談だよ」
「あはは、村上君、冗談とか言うんだ」
「なんだよ、悪いのか?」
もう一度由美の方を向いて、信也が不満気に尋ねた。
ちょうど市街地の方まで辿り着いたところで、前方から軽トラックが迫ってきていたので、
信也はそれをかわそうと道路の端に寄った。
「いや、ごめん、そんなんじゃないけどさ」
「でも、正直な話、バレーよく分かんねぇからなぁ」
「あぁ……だろうね。体育の時間でも、いつもサボって屋上で寝てるしね」
──こいつは驚いた。
「何でそんなこと知ってんだよ」
「え、あぁ、それは、秘密」
口の上に人差し指を立てながら由美が答える。
「何で秘密なんだよ」
「それも秘密」
はぐらかされたな、と小さく溜息をついた。
まぁ、きっとクラスの男子の誰かが言ったんだろう。特段気にすることもないか。
そう思って、なんとなく空を見上げてみる。
街灯りのせいに違いないけれど、さっきの山の上と比べればちっぽけな星空でしかなかった。
それでも綺麗な、空だった。
ボーっと空を眺めている信也に釣られるように、由美も頭上を見上げる。
「あれ、何座か知ってる?」
まだ東の低い空を指差しながら言うと、由美は少し考えるような素振りを見せてから、
思い出したように答えた。
「白鳥座!」
「正解。あれは?」
「えっと……こと座?」
「おぉ。当たり。じゃぁ、あれ」
「わし座。って、夏の大三角じゃない」
「……お前、地味に凄ぇな」
「だから、私も星は結構好きだって言ったでしょ」
「悪ぃ、そういや、そうだったな」
ワン、と柴犬が吠える。
まるで、そうだそうだ、と信也をたしなめているような気さえする鳴き方だった。
白鳥座の、アルタイル。こと座の、ベガ。わし座の、デネブ。
この三つの一等星を結んだものが、所謂、夏の大三角という奴だ。
夏の夜空の定番と言えば、確かに定番の星座である。
しかし、たとえそれを知っていたところで、実際の夜空を見上げても、
普通はどれが何の星座かなんてものは、分からない。
それだけに、信也は由美が本当に星が好きなんだということを実感した。
「けど、さ」
「ん?」
由美が、視線を星から信也に移した。
信也は、相変わらず空の星を見据えたまま、夏の大三角の真ん中の辺りを指差した。
「さすがにあれは、何座か知らないだろ?」
「……どれ?」
目を細めながら、由美は空を見つめた。
「夏の大三角の、真ん中にある星座」
「……あれ、星座?」
そう由美が答えるのも無理はない。
指差した先には、薄暗い星が点々としてしか見えないからだ。
その点を繋いだところで、何かの形を連想することすら出来やしないだろう。
「子狐座と矢座」
上げていた手を下ろして、信也は答えた。
「……聞いたこともないなぁ」
「だろうね」
信也が少し笑いながら言うと、由美はちょっと不満気な顔を浮かべた。
彼女はどうにも結構負けず嫌いなのかもしれないな、と信也は思った。
「子狐が、白鳥の首に噛み付いててさ。その形が星座になってるんだって。
 で、その真下にあるのが神様が飛ばした……ごめん、こんな話しても、つまらないか」
ぽかん、と呆気に取られたような表情で由美が話を聞いていたことに気付いて、
信也はすぐさま口をつぐんだ。すると、由美はくすくすと静かに笑いを浮かべて答えた。
「村上君って、本当に星好きなんだね」
「……だから、そう言ってるだろ」
「あはは」
少し馬鹿にされているような気がして、少しムッとしたが、
由美の笑顔を見ていると、なんだかそれも治まった。
彼女の笑顔は、学校で何度か見かけていたはずなのに、
何故だか新鮮な感じのする笑顔だった。
そういえば、学校で会話を交わしたこともなかったかなぁ。
なんて考えながら、しばらく無言で夜道を歩く。
さっきは何だか気まずかった沈黙も、今度はそれほど気にならなかった。
「あ、じゃぁ、私の家、もうすぐそこだから」
住宅街の方を指差しながら、由美は言った。
気が付けば、信也の家からは大分離れた場所まで来ていた。
──とは言っても、歩いて十分ほどの距離だけれど。
こんなにも近い所に住んでいたのに、気付かないものなんだなぁ、と信也は単純に驚いた。
「あ、うん、そっか。じゃぁ、また明日」
「うん、今日は、ありがとう」
笑顔を浮かべながら小さく手を振る由美に軽く会釈を交わしてから、
信也はゆっくりと家路に着くことにした。
十メートルほど歩いてから、なんとなく後ろを振り返る。
犬に引っ張られるようにして、歩いていく由美の後姿が目に焼きついた。
しばらくそれを見送ってから、また夜空を見上げてみる。
愛の神キューピッドが放ったという小さな矢の先には、
点々と瞬く街灯りが、静かに、厳かに揺れていた。

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