オリオニア(1)
朝は、嫌いだった。学校へ行かなくちゃならない。学校が嫌いだという訳では無い。
行けば行ったで友達とくだらない話をして笑ったり、遊んだりで暇をすることは無かった。
成績だって、むしろ良い方だと思う。
家から遠い、というのはあったかもしれない。
しかし、何よりもそんな生活の全てが無意味な物と感じるようになってしまったのだ。
思い返せば、そう考えるようになったのはいつからだったろうか。
しばらく、頭の中でパラパラとカレンダーをめくる。
が、結局考えるのも面倒臭くなって、信也はベッドから起き上がった。
蘇ろうとした記憶を振り払うように、頭をかきむしる。
汗をかいたボサボサの髪が、指に絡まって気持ち悪い。
舌打ちをしながら、部屋を出る。
電気のついていない廊下は、いつの間にか薄暗くなっていた。
真っ暗闇の中をゆっくり歩いて、階段を降りる。
キッチンの前を通り過ぎて玄関に向かう途中で、つまらない奴に捕まる。
「信也、何処に行くの?」
「散歩」
母親の顔も見ないで、信也は無愛想にそう答えた。
「勉強はしたの?」
「っるせぇなぁ」
「親に向かって、うるさいって何よ」
「帰ったらやる」
不機嫌そうに信也は言ってさっさと家を出る。
玄関の方で何やら母親が騒いでいるが、そんなものは聞こえない。
庭を通り過ぎて、門を開ける。
まだ夏盛りの生暖かい風が、信也の頬を撫でた。
空を見上げてみる。良い天気だ。
車通りの少ない道を渡って、横道に入って行く。
しばらく進むと、道はだんだんと上り坂に変わる。
家々の数が減り、辺りは次第に林ばかりになった。
西の空の、うっすらと明るいのを見ながら、山道を進んだ。
五分ほど歩いて、ようやく平坦な道に出る。
辺りはすっかりと暗い。
日が暮れてしまったのはもちろんだが、家が辺りに全く無いのもこの異様な暗さの要因だろう。
信也は、今出て来た道を迷うことなく緩やかな下り坂の方へ左折して、
ガードレール沿いに街を見下ろした。
遠くの方で、微かに街明かりがきらめいている。
そしてその上──やけに明るく輝く赤い星が目についた。
朝は、嫌いだ。
しかし、夜は好きだった。
ここ鳩井町は、星空が綺麗なことで有名な町だ。
とは言っても、それは単に信也が勝手に言っているだけにすぎないけれど。
しかし、この星空こそが、
交通は不便でゲームセンターも映画館もないこの田舎町の唯一の誇りだと考えていた。
信也は、この丘、大野山から眺める景色がたまらなく好きだった。
ここから星を観測するのが、毎日の日課だった。
不意に、人の歩く足音が聞こえた。
こんな辺鄙な所に誰だろう、と思い、足音の主を探す。
前方、坂の下の方からだ。
ハッハッ、と独特な吐息が聞こえて来る。
どうやら犬を連れているらしい。
足音が近付いて来て、ようやく人影が見えてきた。
スカートを履いている。女の人だ。
背格好からして、同じ年頃の少女だろう。
長い髪が流れるのが見えると、顔立ちもようやくはっきりと見えた。
一瞬、少女と目があった。
信也は我に返り、慌てて目を逸らした。
まじまじと少女の顔を見つめ続けていたことに気付いて、そのことが妙に恥ずかしかった。
──っと、信也は、ふと違和感のような物を抱いた。
刹那に見た、少女の顔。何処かで見覚えがあるような気がしたからだ。
もう一度、すれ違おうとする少女の方を振り返る。
すると、向こうも信也が気になっていたのか、ずっと彼の方を見つめていたようだった。
少女は、あっ、と小さく息をついて、立ち止まった。
首輪から伸びる紐を引っ張られた犬が、不機嫌そうにワンと吠えた。
「村上君、だよね?」
聞き覚えのある声が響いた。だけど、思い出せない。
高校の同じクラスの子だというのだけは確かだ。確か──。
「あれ、違い……ました?」
反応を示さない信也に、ちょっと恥ずかしそうに彼女が言った。
「いや、村上だけど……」
「あ、良かった、違ったらどうしようかと思ったよ」
安堵したように少女が笑う。その笑顔を見て、信也はようやく思い出した。
倉橋由美、間違いなく信也のクラスメイトだ。
私服姿を普段見慣れていないものだから、気付かなかったよ、なんて言い訳をしようとも思ったが、
結局口をついて出てきたのは、
「倉橋さんは、犬の散歩?」
というつまらない台詞だった。
そんなのいちいち聞かなくても、見れば分かる。
「うん、そうだよ」
由美は嫌な顔一つ見せず、微笑みながらそう答えた。
「っていうか、村上君も、この近くに住んでるんだ」
「あぁ、うん。大野山中の近く」
今来た道の方を親指で指しながら言った。
「へぇ、そうなんだ、全然知らなかった。私、てっきり猿渡の方の人だと思ってた」
猿渡(さわたり)と言えば、高校から鳩井町とは正反対の方角にある街で、
この辺りでは、一番栄えている所だ。
信也が通う高校の生徒は、大半が猿渡から通っている。
由美は、おそらくそのせいで信也が猿渡に住んでいると思っていたのだろうが、
返答に困ったのでとりあえず笑みを浮かべて、適当に誤魔化すことにした。
「私は、下鳩井中なの」
下鳩井中は、信也が通っていた大野山中の隣りの校区の学校にあたる。
確か、この緩やかな下り坂を下りた先にあるはずだ。
「そういえば、村上君はこんな所で何してたの?」
不意にそう尋ねられて、信也は少し戸惑った。
しかし、こんな何も無い所にやって来るような
良い言い訳なんて思い付くはずもないので、正直に答えることにした。
「星、見てた」
「星?」
驚いたように由美が言う。当然だ。
学校ではそんなメルヘンなキャラなんて演じてはいない。
「意外だね」
「悪かったな、意外で」
「いや、ごめん。でもさ、実は私も星、好きなんだ」
言って、由美はガードレールの方を向いた。
「ほら、あれ、アンタレス」
指差した先──空の低い位置に、赤い星が見えた。
さそり座の一等星、アンタレスだ。
「へぇ、正解。意外だね」
「あ、ひど〜い」
由美は笑いながら言った。
「先にそっちが言ったんだろ」
「でも、ちゃんと謝ったじゃん」
「まぁ、確かに」
二人同時に静かに笑って、会話が一瞬途切れたところで、タイミング良くワン、と犬が吠えた。
「あ、マー君ごめん、」
由美は慌ててしゃがみ込んで、犬の頭を撫でてやる。
「マー君って言うんだ、犬の名前」
「うん、そうだよ」
撫でられた犬は少し嬉しそうに、クウン、と鳴いた。
「毎日散歩連れて来てるの?」
「ううん、いつもは弟が散歩役なんだけど。元々は、弟がせがって買ってもらった犬だから」
しつこいくらいにくしゃくしゃと、柴犬──マー君の毛並みを触りながら、由美は続けた。
「でも、今朝から、臨海学校行ってるから、今日は私が変わりなの」
ふうん、と頷きながら、ふと疑問に思うことがあった。
信也は隔日くらいの割合で、ここへ星を見に来ている。
その間、ここを誰かが通った記憶はほとんど無い。
ましてや、犬を連れているなら、気付かないはずが無いだろう。
「散歩って、弟もいつもここを通るの?」
「ううん、多分そのはずだけど……」
柴犬から目を上げて、由美は答えた。
「あ、でも、時間帯は、一時間近く早い時間帯だと思うけどね。弟、まだ中学生だし、
電車通学とかじゃないから、日が沈む前までには家に帰ってきてるから。……それが、どうかした?」
「いや、別に、何でも無いけど」
慌てて首を振りながら、心の中で、なるほどね、と呟いた。
日が沈む前に散歩に連れて来ているのなら、会うはずが無い訳だ。
なんせ、日が沈まなければ、夜空の星は見えないからだ。
そんな時間帯にはまだ、信也はここに足を運んでいない。
「っと、早くしないと、晩ご飯遅くなっちゃうや、それじゃぁ」
そう言って、由美は立ち上がった。
柴犬の首に繋がっている紐をグイッと引っ張ると、信也の今来た道を歩いて行こうとする。
しかし、犬の方はといえば、信也の顔をじっと見つめたまま、何故か動こうとしなかった。
舌をだらしなく見せながら、ハッ、ハッと息をしている。
そんな姿が、何故だか可愛くも見えた。
「マー君、ほら、行くよ」
由美がそう声を掛けると、柴犬、マー君はワンと返事をして、ようやく由美の方に視線を移した。
「あ、倉橋さん」
「え、何?」
信也は、気が付いたように、由美に声を掛けた。
由美は、今度は慌てて紐を引っ張ってとめた。
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