ジョーカーと僕のカノジョ(3)
2007/10/28 公開
目を覚ますと、良い匂いがした。
今朝も静かだった目覚まし時計へ目をやると、もう午後も二時に近かった。
台所へ行くと、香苗がおはようと言った。
僕は挨拶を返し、席に着いた。食卓でオムライスが僕を待っていた。
まだ食べないでよね──
何かをまな板の上で切りながら、香苗が笑った。
スプーンを持って一口だけと味見をしようとしていた僕は、背中に目でもついているのかと思い驚いた。
しかし、驚いたのは香苗の方だった。
どういうことかと言うと、突然きゃっと小さな悲鳴をあげたのだ。
僕は初めあの黒い虫でも出たのかと思ったが、そうではないらしかった。
香苗は、何かを切っている最中にその何かを落としたらしく、床に張り付いてそれを探し始めた。
聞くと、キュウリがまな板をコロコロ転がって床に落としてしまったのだという。
しかし、たまたま悲鳴をあげる直前の香苗を見ていた僕は、何かまな板から転がり落ちるのには気付かなかったし、そんな音も聞こえなかった。
それでも落としたと言い張るので、僕は一緒になってそれを探した。
しかし、見つからなかった。
諦めようと思い、僕が顔を上げると、まな板の上に乱切りにされたキュウリがあった。
これは?、と僕が尋ねると、キュウリ三本をサラダに入れるために切っていて、これはそのうちの一本分なのだと説明してくれた。
僕らは仕方なく、一本分のキュウリを仲良く分けて食べることにした。
今日、面接なんでしょ?──
冷めたオムライスをハムハムと噛み締めながら、僕は頷いた。
この日、僕は夕方五時から求人案内で見つけた仕事の面接に行くことになっていた。
僕はそのために松屋のバイトのシフトを代わって貰っていた。
コンピュータ関連の仕事だった。
頑張ってね──
オムライスを食べ終えた僕に香苗が微笑んだ。
僕はそれに答える代りに、左手を額に当てて、敬礼の真似事をしてみせた。
ない!──
翌日、僕は香苗の叫び声で目を覚ました。
聞くと、僕が誕生日にプレゼントしたピンクとスカイブルーで一組のマグカップがなくなったのだと言われた。
僕は少しムッとなった。
なんで失くなんだよ──
知らないわよ、と香苗は首を横にを振ったが、僕はそれを認めなかった。
お前が欲しいって行ってたから買ったのに、失くしたってなんだよ──
違うもん、だって──
しばらく、そんな言い合いが続いた。
だんだん頭が冷めて来た僕は、冷静にマグカップが何処へ行ったのかを考えた。
しかし、答えは出なかった。
次の日は、僕も香苗も大好きだったCDがなくなった。
発売日に僕が買って来たら、香苗も同じ物を買っていて、気が合うね、と笑った思い出の品が、
何故か僕が買った方も香苗が買った方も両方なくなっていた。
また次の日は、お揃いのマフラーがなくなっていた。
あまりに物がなくなるので、僕らは警察に電話したが、
そんな物を盗む泥棒はいないと笑われ、相手にして貰えなかった。
怖いよ──
泣きそうな声で香苗が俯いた。
僕はその弱々しい肩を抱き寄せて、心配するなと頭を撫でてやった。
それでも容赦無く毎日何かが失くなった。
マフラーの次は、居間と寝室のゴミ箱がなくなった。
その次は、台所の椅子がなくなった。
僕の座る椅子も香苗の椅子もなかった。
台所には、不自然にテーブルだけが残された。
一時半に香苗と昼ご飯を食べた時に座ったはずなのに、トランプで遊んで二時半に戻って来た頃にはもう椅子がなかった。
どうなってるのよ──
香苗は泣くような怒るような声で囁いた。
その日、深夜バイトを終えて家に帰ると、香苗がまだ起きていた。
怖くて眠れないの、と香苗は言った。
元気がなかった。最近はずっとそうだった。
僕は香苗を元気づけようとコートのポケットを探った。
中から小さな箱が現われた。
松屋のバイトを休み時間の間に抜け出してこっそり買って来た物だった。
僕は、ラッピングされたそれを香苗に手渡した。
何、これ?──
プレゼントだよ──
誕生日でもないのに?、と香苗は小さく笑った。
結ばれた紐を外して、香苗が小さな箱を開けた。
中には、ちっぽけではあるけれど綺麗なダイヤが埋め込まれた指輪が入っていた。
驚いた顔で香苗が僕を見た。僕は照れくさそうに笑った。
就職決まったんだ──
この間の面接が通ったのだと僕は付け足した。
最近、元気がないからさ──
箱の中の指輪を、香苗が見つめているのに気付いて、僕はそれを取り出し香苗の左手の薬指に付けてやった。
最近、いろいろ物が失くなったりして、香苗、ずっと怖がってたろ──
僕の問い掛けに、香苗はゆっくりと頷いた。
だから、なんとかして元気づけようと思ったんだ──
蛇口から水が一滴落ちて、流しのアルミがタンッと音を響かせた。
夜だからか、やけに大きな音に聞こえた。
俺、頭悪いからさ、こんなことくらいしか励ます方法思い付かなくて──
そんなことないよ、と香苗が言ってくれたので、僕は小さく笑ってみせた。
突然過ぎるし意味不明だけど、でも、俺、絶対香苗のこと守るから──
僕は、香苗の目を見つめた。香苗も、僕の目を見つめていた。
ドキドキして今にも弾け飛びそうな鼓動に耐えながら、僕は、続けた。
だから、結婚しよう、もう怖い思いとか悲しい思いはさせないから──
耐え切れずに涙を流しながら、香苗は小さく頷いた。
そして、ワンワンと泣き始めた。
僕はそれをそっと抱き締めて、大丈夫だからと優しく声を掛けた。
香苗は嗚咽を飲み込んで、ありがとうと囁いた。
鼻声だった。
最後に僕が大好きだよ、と言うと、香苗は私も、と嬉しそうに答えた。
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